函館競馬の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 14:12 UTC 版)
1853年(嘉永6年)にペリー提督が率いるアメリカ東インド艦隊が日本の開国を求めて浦賀沖に来航したことを契機として、翌年に江戸幕府との間で日米和親条約が締結され、1859年(安政6年)に箱館(現:函館)が開港された。自由貿易港として開港された函館では西洋文化がいち早く入り、1862年(文久2年)頃には祭典余興として、競馬に似たものが行われていた記録が残っている。1875年(明治8年)に招魂社(現:函館護国神社)例大祭の祭典競馬として、蓬莱町の道路に柵を仮設して行われた競馬が、函館競馬の始まりとされる。 1879年(明治12年)の函館大火で翌年の招魂社競馬は中止され、意気消沈した住民を励ますために競馬場開設の構想が持ち上がり、当時の函館県令だった時任為基の尽力により1882年(明治15年)に函館海岸町競馬場が開設され、翌年には函館大経らによって北海共同競馬会社が設立、それまでの祭典競馬とは異なる近代競馬に近い形態の競馬が行われるようになった。函館海岸町競馬場は1896年(明治29年)に現在地へ移転し、数度のコース拡張を経て現在の函館競馬場となった。 初期の主催・運営者だった北海共同競馬会社は1887年(明治20年)に設立された有志競馬会との合併を模索し、「函館共同競馬会」を設立。「函館競馬会」に改称されたのち、1910年(明治43年)に「函館競馬倶楽部」に改称され、補助金競馬から(旧)競馬法の時代に函館競馬を主催。1936年(昭和11年)に(旧)競馬法が改正されると、函館競馬倶楽部は解散し、「日本競馬会」に統合された。日本競馬会は戦後にGHQの指摘を受け解散し、国営競馬を経て1954年(昭和29年)に設立された日本中央競馬会に引き継がれ現在に至っている。 開設時のコースは1周550間 (≒1000m)だったが、1903年(明治36年)には660間 (≒1200m)に拡張。1909年(明治42年)には880間 (≒1600m)に拡張された。
※この「函館競馬の変遷」の解説は、「函館競馬場」の解説の一部です。
「函館競馬の変遷」を含む「函館競馬場」の記事については、「函館競馬場」の概要を参照ください。
- 函館競馬の変遷のページへのリンク