八森本館一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 14:46 UTC 版)
史料が少ない住民一揆で、唯一年代不詳の『羽州秋田山本郡八森之内 本館落城記』のみが史料とされる。佐竹氏関連の史料にも鎮圧や処刑の記録さえない。そのため、これは史実ではないのではないかとする歴史学者もいるが、地元に残る民話や、本館城趾、八森の松源院に残る武田氏の霊碑、本館地区に残る「たいまつまつり」、城攻めの後に沢に首がごろごろ落ちていたことから名付けられた「人首沢」という地名などを根拠に史実ではないかともされる。佐竹氏が秋田入りして間もない頃は、南部では小野寺氏や戸沢氏領下の豪族に不穏な動きがあり、北部には浅利氏遺臣を中心とした一揆があり、領国の支配体制は万全とは言えなかった。このため、佐竹氏は史料にこの一揆の件を残したくなかったのではないかとも言われる。 ただ、『本館落城記』の内容はあまりに武田氏よりの記述になっている。たとえば、首謀者の一人とされる勘解由は竹生村では村祖としてあがめられ、祀られてもいる。『菅原神社由来記』や、木村忠光の『竹生開拓の神様 勘解由左ェ門伝記』では勘解由はかなり評価されており、また『本館落城記』の記述との矛盾も大きい。確かに『本館落城記』では秋田氏がいる所が三春藩であると誤認しており(当時は常陸宍戸藩)、武田側の人物が武芸で異様に活躍したり、一揆側に対する処罰の過酷さや、その後の災厄が強調されすぎてもいて、また民話とも矛盾する部分もある。しかし、いずれにせよ唯一の史料なので史料批判を行いながら参考にせざるを得ない。 ただ、石井忠行の『伊頭園茶話』には「本館村秋田城之助殿家臣滝本三郎右衛門居城、勘解由といふ百姓、一揆して責落され、松源院に石塔位牌有之由」とあり、別人が記されている。
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