全日本男子監督として
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2004年のOQT敗退後に前任の田中幹保監督以下スタッフが総辞職し、植田は全日本男子暫定監督に就任しその年のワールドリーグ予選ラウンドの指揮を執った。立木正夫(当時のJVA会長で強化事業本部長)によると、植田は選任にあたり自薦他薦を合わせて10名集まった中で国内から志願した唯一人の候補者だったという。 その翌年の2005年に植田は代表監督を要請され、正式に就任した。植田は最初のミーティングで選手に「全日本男子では寝癖のついたような頭や茶髪は禁止(ヒゲも)」だと、自身の方針を伝えた。当初は「練習中に水を飲んではならない」もあったが、のちに栄養士の意見を聞き入れ撤廃している。他にもチームスタッフにメンタルケアスタッフを加える等、専門家の意見は柔軟に取り入れている。この年のアジア選手権で5大会10年ぶりの優勝を果たした。 2006年の世界選手権で1982年の4位以来となる8位入賞を果たし、ドーハアジア大会で5位にもなった。 2007年、Vリーグ40回大会記念特別表彰においてVリーグ栄誉賞を受賞し、アジア選手権でも準優勝した。 2008年6月7日、監督として采配を振った2008年北京オリンピックのバレーボール競技・世界最終予選に於いてアジア1位の成績で自身が選手として出場した1992年のバルセロナ五輪以来16年ぶりの五輪出場権を獲得したが、8月のオリンピック本戦では1次リーグで敗退した。 北京五輪後、日本バレーボール協会は代表監督の公募を行った。ジュリオ・ベラスコ(こののちイラン男子代表の監督に就任)ら複数の応募があったが、最終的に植田監督の続投が決定した。 2009年、アジア選手権で2大会ぶりの優勝を果たす。グランドチャンピオンズカップで、主要国際大会においては32年ぶりとなる銅メダルを獲得した。 2010年、世界選手権で2次リーグで敗退したものの、広州アジア大会で4大会16年ぶりの金メダルを獲得する。 2012年6月、ロンドンオリンピック世界最終予選は全体4位(アジア3位)におわり2大会連続の五輪出場はならなかった。大会終了後、植田は日本バレーボール協会に対して辞任を申し出たが、協会からは任期が切れる2013年3月までは現場の強化に携わるよう要請されたため、引き続き全日本チームでの任にあたった(第3回アジアカップでチームマネージャーなど)。なお、2012年9月の2013年バレーボール・ワールドリーグ予選は諸隈直樹が監督代行を務めた。
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