全国水平社による辞爵運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:54 UTC 版)
「徳川家達」の記事における「全国水平社による辞爵運動」の解説
大正時代には大正デモクラシーの高まりの中で労働運動や農民運動と並んで部落差別解放運動も高まりを見せた。大正11年の全国水平社の結成はその象徴だった。全国水平社は天皇陛下のもと平等であるべき人民が歴代徳川将軍の悪政のせいで皇室と遮断された結果、部落差別が起きるようになったと批判し、大正14年の全国水平社第3回大会は徳川一門に辞爵を求めることを全会一致で決議。3月から4月にかけて九州全国水平社委員長だった松本治一郎が千駄ヶ谷の徳川公爵邸に訪問したが、家達は病気を理由に会見を拒否。松本は代わりに家令に決議案を手渡して回答を要求したが、回答はなかった。7月9日には松本とその同志2名がピストルや短刀を準備して家達暗殺を企んだとして警察に逮捕された。松本らは家達暗殺のためピストルや短刀を用意していたわけではないと主張し、最上級審の大審院まで争っていたが、結局大正15年3月に懲役4カ月の実刑判決が下った。 一方家達は7月25日に全国水平社の代表者と初めて会見し「自分が公爵に列せられたのは天皇陛下の思し召しであり、勝手に辞爵することは大御心に背くことになる」と述べて辞爵を拒否した。 9月20日未明には徳川公爵邸で火災があり母屋の建物のほとんどが焼失した。当初は漏電が原因と見られていたが、翌年には放火犯として松本の世話になっていた青年が逮捕された。放火犯は懲役15年の実刑判決を受けた。 明治天皇行幸を記念して「日香苑」と呼ばれていた旧邸の一部が無事だったのでしばらくはそちらで生活し、2年余後の1928年4月に焼失前の規模で再建された。
※この「全国水平社による辞爵運動」の解説は、「徳川家達」の解説の一部です。
「全国水平社による辞爵運動」を含む「徳川家達」の記事については、「徳川家達」の概要を参照ください。
- 全国水平社による辞爵運動のページへのリンク