全人種選挙まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 22:56 UTC 版)
「マンゴスツ・ブテレジ」の記事における「全人種選挙まで」の解説
1990年2月にマンデラが釈放され、ANCが合法化されると、それまでナタール州内にとどまっていた衝突はただちにズールー人労働者の多いトランスバール州へと波及し、国内の深刻な治安悪化を引き起こした。これを受け、1991年1月にはマンデラとブテレジが会談を行って和平合意がなされ、次いでインカタとANC、さらに与党国民党は和平合意を行ったものの、事態は沈静化しなかった。1991年に民主南アフリカ会議(CODESA)が開始されるとブテレジはインカタ自由党の代表者として参加したものの、国民党やANCが中央集権体制を望んでいたのに対し、インカタは存立基盤であるクワズールーの自治権を失うわけにはいかなかったためブテレジは地方分権的な連邦制を強硬に主張し、しばしば会議から脱退した。このころからインカタは徐々にCODESA反対の姿勢を鮮明にし始め、1992年10月にはボプタツワナ・ホームランドのルーカス・マンゴーペ首相や、白人右翼政党で野党第一党である保守党のアンドリース・トリューニヒト党首らと「憂国南アフリカ」を結成してCODESAの解体を要求した。1993年11月には全人種選挙を実施するための暫定憲法が採択されたが、ブテレジとインカタはこの案に反対し選挙の不参加を表明した。 1994年4月に予定された全人種選挙において、ブテレジとインカタ自由党は不参加の立場を維持し続けたものの、3月に入ると反対派の急先鋒だったボプタツワナ・ホームランドでマンゴーペ首相が失脚したことをきっかけに、クワズールー以外の全ホームランドが選挙参加を決定し、さらにこれを見た右翼穏健派のコンスタンド・フィリューンが白人保守派政党である自由戦線を結成して選挙参加を決めたことで、有力政治勢力の中で選挙否定派はブテレジ率いるインカタを残すのみとなった。ネルソン・マンデラとフレデリック・デクラークはズールーのグッドウィル・ズワリティニ王に選挙後のズールー王室の特別な地位の保証を提示することで揺さぶりをかけ、選挙反対派のブテレジと引き離そうとした。この提案は上手くいかなかったものの、この提案はズールーにとって不利なものでは全くないため、ブテレジ自身はこの提案に対し好意的だった。南アフリカ国内のほか、アメリカの元国務長官であるヘンリー・キッシンジャーおよびイギリスの元外務大臣であるピーター・キャリントンに率いられた国際調停団も、ブテレジにボイコットの撤回と選挙参加を求めた。こうしてブテレジは、4月19日のマンデラおよびデクラークとの会談において、ズールー王の儀式的地位の保証およびズールー地域における自治強化のために外国の調停団がインカタの主張を検討することを認めさせる代わりに選挙参加を決断した。これにより、南アフリカの有力政治勢力はすべて総選挙に参加することとなった。 しかしブテレジの支持はこの時期急速に衰えており、決断はやや遅きに失していた。そのためインカタ自由党は1994年4月26日から29日の全人種選挙において、クワズールー・ナタール州を除いてはわずかな票しか得られなかったが、それでも同州では過半数の票を獲得し、全体では10.5%の票を得て議席数は3位につけた。暫定憲法においては5%以上の得票を得た政党の強制連立規定が存在したため、インカタ自由党は自動的に第一党のアフリカ民族会議および第二党の国民党と連立を組むこととなり、1994年5月、マンデラ大統領によってブテレジは国民統合政府の内務大臣に任命された。
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