児玉とアイヌ人骨問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:32 UTC 版)
「児玉作左衛門」の記事における「児玉とアイヌ人骨問題」の解説
かつて、北海道大学医学部の標本陳列棚には、動物標本と並んで1000体以上のアイヌ人骨が陳列されていた。これら人骨の大半は、児玉が1933年頃から北海道大学医学部解剖教室の長として、その教室員とともに蒐集したものである。 アイヌ民族は明治以来、国内外の人類学者の注目を集めてきた。児玉はアイヌの人類学的特徴に着目し、純粋な学術的関心からアイヌ研究を出発させた。その中で、近代化によってアイヌと和人の混血がすすみ、純粋なアイヌがその数を減じつつあることに危機感を抱いた児玉は、「純粋なアイヌの骨格蒐集」を急務の課題とすることとなった。 純粋なアイヌ人骨を入手するために児玉が目をつけたのは、アイヌの墓地を掘り起こすことであった。1930年代、北海道の森、八雲で大規模な墓地発掘が行われ、戦後も静内などでアイヌ墓地を掘り返す「調査」が行われている。1934年(昭和9年)の八雲での発掘を皮切りに、1939年(昭和14年)までの間に、北海道・樺太・千島でアイヌの墓の発掘を行い、500以上のアイヌの人骨を収集した。児玉自身は発掘数以外の「調査」の内容を明らかにしておらず、僅かの金品を渡し形ばかりの慰霊を行って強行した事例も存在する。だが、当時のマスコミや研究機関からの批判は為されていない。その後も、北海道新聞が当初から児玉の業績を讃える報道を行ったため、児玉の動向を報ずる記事は「偉大な児玉教授のその後」を広報する性格のものになっている。新聞報道においては児玉とアイヌ人骨を並べた写真が多く見られ、児玉にとって、頭蓋骨を手にした姿は敬遠するどころか、わざわざ好んで撮ってもらいたかった構図だったと推測される。 その後、アイヌや市民団体からの再三の指摘により、1982年になって北海道大学医学部は標本庫に保管されているアイヌ人骨1004体の存在を公表した。ウタリ協会は人骨の慰霊と追悼を行うことを求め、世間の批判にも晒された北大医学部は、1984年に医学部構内に「アイヌ納骨堂」を建立し、以来毎年、北大関係者も参列してアイヌ慰霊祭(イチャルパ)が行われている。しかし、北大医学部は現在も「人骨標本」の学術的成果を楯に、その蒐集過程で倫理的な問題があったことを認めていない。
※この「児玉とアイヌ人骨問題」の解説は、「児玉作左衛門」の解説の一部です。
「児玉とアイヌ人骨問題」を含む「児玉作左衛門」の記事については、「児玉作左衛門」の概要を参照ください。
- 児玉とアイヌ人骨問題のページへのリンク