光琳百回忌とは? わかりやすく解説

光琳百回忌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:58 UTC 版)

酒井抱一」の記事における「光琳百回忌」の解説

文化3年1806年2月29日抱一追慕する宝井其角の百回忌にあたって其角肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。これがまもなく迎え光琳の百回忌意識するきっかけになった思われ以後光琳事績研究顕彰に更に努める。其角回忌翌年光琳の子養家小西家から尾形家の系図照会し文化10年1813年)これに既存の画伝や印譜合わせ緒方流略印譜』を刊行落款略歴など基本情報押さえ宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性打ち出した光琳没後100年に当たる文化12年1815年6月2日に光琳百回忌を開催自宅の庵(後の庵)で百回忌法要行い妙顕寺に「観音像」「尾形印譜」金二百疋を寄附根岸寺院光琳遺墨展を催した。この展覧会通じて出会った光琳の優品は、抱一絵師として大きく成長させ大作次々と挑んでいく。琳派装飾的な画風受け継ぎつつ、円山・四条派土佐派南蘋派伊藤若冲などの技法積極的に取り入れた独自の洒脱叙情的な作風確立しいわゆる江戸琳派創始者となった光琳研究と顕彰以後続けられ遺墨展の同年縮小展覧図録である『光琳百図』を出版する文政2年1819年)秋、名代遣わし光琳墓碑修築翌年石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。文政6年1823年)には光琳の弟尾形乾山作品集乾山遺墨』を出版し乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年1826年)にも、先の光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えことはなかった。これらの史料は、当時琳派考え上で基本文献である。また、光琳百図』は後にヨーロッパ渡りジャポニスム影響与え光琳西洋でも評価されるのに貢献している。

※この「光琳百回忌」の解説は、「酒井抱一」の解説の一部です。
「光琳百回忌」を含む「酒井抱一」の記事については、「酒井抱一」の概要を参照ください。

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