光琳の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:58 UTC 版)
抱一が尾形光琳に私淑し始めるのは、およそ寛政年間の半ば頃からと推定される。木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、こうした知識人の間での光琳に対する評価は抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、その作品が残っていたことも幸いしている。また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。
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