光復軍の活動
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陸軍大学卒業後は大韓民国臨時政府に参加。1942年8月、韓国光復軍常務局長(総務処長?)に任命。重慶空軍軍区参謀長を務め、重慶からの輸送を管掌する立場であった羅英徳を訪ねて、臨時政府の文書を桂林や西北、前線など中国各地に輸送できるようにした。 独立運動に空軍が必要だと感じた崔は航空隊の創設に尽力した。これは、光復軍の人員が不足している状態であったため、少数の兵力で目に見える効果を出し米国にアピールする狙いがあった。1943年7月6日、国務委員会で崔の「空軍建設計画案(空軍建設計劃案)」が採択。同年8月に空軍設計委員会が創設され、崔が副主任、尹琦燮(朝鮮語版)、金鉄男、李英茂、金震一、權基玉が設計委員に任命された。 1945年、光復軍総司令部の警備を担う土橋隊が創設されると隊長に赴任。 終戦後、韓僑保護問題を担当する臨時政府駐華代表団が組織され、韓僑管理を担当する韓僑宣撫団と軍事処理を担当する光復軍司令部に分かれて運用されることになった。1945年11月に華北地域の韓僑を管理する華北韓僑宣撫団が北京に設置され、軍務組長に任命された。混乱した第2支隊と第3支隊を統合させ、日本軍兵士を中心に韓国人を吸収して光復軍駐華北弁事処が創設されると処長に就任。華北に派遣されていた空軍作戦処長の羅英徳を通じて、韓国人の帰国と臨時政府の文書輸送にアメリカ軍機の定期輸送を利用出来るようにした。北平にいた韓僑の多くが帰国するまで中国に留まり、1946年7月5日、38度線以南に帰国。
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