光復直後の活動
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1945年10月、謝雪紅は台中で人民協会及び農民協を設立した。しかしこれらの組織は陳儀により解散させられると、新たに建国工芸学校を設立し青少年への教育を実施すると共に、『和平日報』を通して行政官であった陳儀に対する攻撃を加えた。 1947年二二八事件が勃発すると謝雪紅は3月2日に台中において人民蜂起を目指し、台中警局及び公売局台中分局を占拠し人民政府を設立した。翌日には台中地区治安委員会作戦本部を組織、自ら指導者となり軍営を占拠し弾薬を強奪、それを嘉義や虎尾地区の蜂起軍に供給した。そして自らも6日に二七部隊を結成し9日に埔里に侵入、山間部でのゲリラ戦を画策するが原住民の拒絶に遭い計画は失敗、謝雪紅はアモイを経由して5月には香港に逃亡した。
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