先進的過ぎた戦争観
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1913年(大正2年)2月から1916年(大正5年)7月までの3年5か月間、フランスに駐在して、第一次世界大戦を間近に見た。帰国後の1916年(大正5年)12月から1918年(大正7年)12月まで海軍大学校甲種学生(16期)となって次席で卒業したが、堀は海大甲種学生在校中に独自の戦争観を表明した。 堀の戦争観を、筒井清忠は下記のように要約する。 「戦争そのものは明らかに悪であり、凶であり、醜であり災である。然るに之を善とし、吉とし、美とし、福とするのは、戦争の結果や戦時の副産物等から見て戦争実体以外の諸要素を過当に評価し、戦争実体と混同するからに外ならない」というのが堀の基本的主張であった。 — 堀悌吉の見解を、筒井清忠が要約、 堀は下記のように記している。 凡そ軍備は平和を保証するに過不足なき如く整備すべきである。……小に失すれば無軍備よりも却って危険な事があり大に失すれば……野心の徒輩が、使用の方策を誤り不法無謀の事に之を濫用したがるのおそれがある。 — 堀悌吉、『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集(第2巻 193-194頁)』、 学生であった時……自分は「世界平等文明」という様な言葉を使った事が、大学校教官の中の或る人々の間に於て物議をかもし、殊に……戦争の罪悪説を主張し、之を固持するに及び、堀は世界主義者だとか、社会主義者又は共産主義者(当時是等の言葉は同一の意味に用いられて居た)だとか言われ、果ては思想の健全性をまで疑わんとするものがあった。 — 堀悌吉、『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集(第2巻 199頁)』、 海軍部内では、かかる考えを明らかにした堀を「危険思想の持ち主」と警戒する者が少なくなかった。 海大甲種学生卒業後に海軍省軍務局第1課局員となった堀について、堀の上司である海軍省軍務局第1課長の山梨勝之進(兵25期)は、部下であり、かつ堀に兄事していた古賀峯一(兵34期)と下記の問答を交わした。 堀君が思想上おかしいと云つてる人が居るが君はどう思うか。 — 山梨勝之進(海軍大佐、海軍省軍務局第1課長)、 堀さんは昔からよく知つて居ますが、そんなことはありません、冗談でしよう。 — 古賀峯一(海軍少佐、海軍省軍務局第1課局員)、 筒井清忠は下記のように評する。 堀は適正な規模の防衛力の保持と今日では常識的な世界平和や発達途上国支援などを考えていたに過ぎなかったのだが、当時の日本における軍人の思考としては、極めて先進的なものであったため問題視する人もいたのである。 — 筒井清忠、
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