充足理由律とは何か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 14:14 UTC 版)
20世紀の日本の哲学者永井均(1951年-)は2005年の著書の冒頭で、次のようなエピソードを書いている。 中学生のとき、理科室の備品がなくなるという事件が起きたことがある。先生は生徒の誰かが持って行ったのではないかと疑っていた。その同じ日の午後、クラス全体に向かって発言する機会があったので、私は「物は突然ただ無くなるということもありうるのではないか」という趣旨の発言をした。そういうことはありえないということは、いつ誰が証明したのか、と。クラス担任から私の発言を聞いた理科の先生から、私はそういう「無責任な」ことを言ってはいけないと諭された。いま思えば、理科の先生なのだから、あらゆる出来事には原因があると考えなければならない理由を説明してくれてもよかったような気もするが、もちろん、そんな説明はなかった。私は、肩透かしを食ったようで少し残念ではあったが、まあそんなものだろうと、思った。ところが、意外なことに、私の発言に賛同する生徒たちが現れた。その趣旨は「君の言うとおりだ、やたらと生徒を疑うのはよくない」というものであった。もちろん、私はそんなことが言いたかったのではなかった。私は、私を叱った先生よりも、私の発言を支持した生徒たちから、理解されなさを強く感じたのを覚えている。 — 永井均(2005年)『私・今・そして神――開闢の哲学』(強調引用者) 「物は突然ただ無くなるということもありうるのではないか」、もしこうした発言を身近な人がしているのを聞いたならば、「本当におかしいことを言うやつだ」と多くの人が思うだろう。ここで、こうした発言の内容を「おかしい」と思う際に多くの人が暗黙の内に前提していること、それこそが充足理由律である。つまり「何事も理由なくは起こらない」と。この原理はあまりに常識的なことを言っている。そのため日常の中でこのことが取り立てて議論されることは、ほとんどない。18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724年 - 1804年)は、充足理由律についてこう述べている。 あまりにもっともらしく見えて、一般の常識すらもそれに賛同しているほどであるような原則 — イマヌエル・カント(1781年)『純粋理性批判』(A VIII)
※この「充足理由律とは何か」の解説は、「充足理由律」の解説の一部です。
「充足理由律とは何か」を含む「充足理由律」の記事については、「充足理由律」の概要を参照ください。
- 充足理由律とは何かのページへのリンク