充足理由律は棄却できるか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 14:14 UTC 版)
「充足理由律」の記事における「充足理由律は棄却できるか」の解説
このように、充足理由律の受け入れには多くの問題がともなう。それならそうした問題の多い原理なんて、捨て去ってしまえば良いではないか、という考えもありえる。しかし充足理由律を単純に拒否することには、さらに大きい困難をともなう。日常的な文脈で言うならば充足理由律をまったく認めないことは、ほとんど狂気に近いものとなる。「物は突然ただ無くなるということもありうるのではないか」と言われて、「私もそう思う」と答えるようなことだからである。さらに哲学的な文脈では、充足理由律の棄却は、時に、学問の放棄、知の敗北、といった大きい意味をもって捉えられることもある。これは理由律が学問における重要な要素のひとつを構成していることからの反応である。18世紀のドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアー(1788年-1860年)は、学問における充足理由律の重要性について次のように書いた。 充足根拠律の重要性はきわめて大きい。したがって、あえて言ってしまおう。充足根拠律は、あらゆる学問の根底である。すなわちこういうことである。一般に説明されているように、学問とは様々な認識をシステムとしたもの、つまり、様々な認識のネットワークのことであり、認識の単なる寄せ集めとは異なる。ところで充足根拠律以外の何が、システムの構成要素を結合するというのであろうか。学問の認識は、先行する根拠を次々に根拠としながら連関しあっているが、そのことがまさに、あらゆる学問を認識の単なる寄席集めから際立たせるのである。…われわれはつねにアプリオリに、あらゆるものは根拠をもっているということを前提しており、そしてこの前提が、なにごとにつけ<なぜ>と問う権利をわれわれに与えてくれるのであるから、この<なぜ>をあらゆる学問の母と名づけることが許されるであろう。 — アルトゥル・ショーペンハウアー(1813年)『充足根拠律の四方向に分岐した根について』
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