元稹との交流とは? わかりやすく解説

元稹との交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 03:57 UTC 版)

白居易」の記事における「元稹との交流」の解説

二人知り合ったのは、二人史部試験合格した貞元十九年(803年)の頃であった。この最初出会いのことを白居易は、「書に代うる詩一百韻 微之(元稹の字)に寄す」という二百句に及ぶ長い詩の冒頭に、「億う 貞元の歳に在りて 初めて典校の司に登る 身名同日授けられ 心事一言に知る」(思い返せば貞元の世、登第して校書になったばかりの時。栄えある名を君と同じ日に授けられ、胸に思うことは一言通じ合えた。という意。)と記す。さらに別の元稹に贈る」詩の最後四句登科同じくする為ならず 署官を同じくする為ならず 合う所は方寸在り 心源に異端無し」(我々は登第も同じ、官職も同じ出会ったけれども、それが理由で友となったわけではない。心が深いところでぴったり一致するのだ。という意)と示している。白居易は、この他にも、元稹関わる詩を多く詠っている。 元稹元和五年二月に、河南尹の房式を、不法のことをしたと言って御史台拘置して執務停止させたのだが、この元稹行為監察御史が「自分勝手に職務行ったやりすぎた行為だ」として問題視したことがあった。この事件は、結局房式が罰俸一月処分を受け、元稹それより重い罰俸三月処され、さらに長安召され江陵左遷まで告げられてしまったのだが、白居易はこの件に関し元稹弁護し、この処置抗議する文章を三回も上奏した。第三回目の文章元稹論ず第三状」(1965年)は、『白氏文集』の四十二巻収められている。平岡武夫は「白居易異議申立てが、発令後すぐに行われ、また短い期間に三度繰り返し為されることから、これは勇気ある行為であり、二人の間に熱い友情躍如している」と評している。 二人このような交流は、元稹大和五年(831年五十三歳亡くなるまでの約三十年間ひととき揺るぐことなく続いた

※この「元稹との交流」の解説は、「白居易」の解説の一部です。
「元稹との交流」を含む「白居易」の記事については、「白居易」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「元稹との交流」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「元稹との交流」の関連用語

1
6% |||||

元稹との交流のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



元稹との交流のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの白居易 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS