元稹との交流
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二人が知り合ったのは、二人が史部の試験に合格した貞元十九年(803年)の頃であった。この最初の出会いのことを白居易は、「書に代うる詩一百韻 微之(元稹の字)に寄す」という二百句に及ぶ長い詩の冒頭に、「億う 貞元の歳に在りて 初めて典校の司に登る 身名同日に授けられ 心事一言に知る」(思い返せば貞元の世、登第して校書郎になったばかりの時。栄えある名を君と同じ日に授けられ、胸に思うことは一言で通じ合えた。という意。)と記す。さらに別の「元稹に贈る」詩の最後の四句「登科を同じくする為ならず 署官を同じくする為ならず 合う所は方寸に在り 心源に異端無し」(我々は登第も同じ、官職も同じ出会ったけれども、それが理由で友となったわけではない。心が深いところでぴったり一致するのだ。という意)と示している。白居易は、この他にも、元稹に関わる詩を多く詠っている。 元稹が元和五年二月に、河南尹の房式を、不法のことをしたと言って御史台に拘置して、執務を停止させたのだが、この元稹の行為を監察御史が「自分勝手に職務を行ったやりすぎた行為だ」として問題視したことがあった。この事件は、結局房式が罰俸一月の処分を受け、元稹はそれより重い罰俸三月に処され、さらに長安に召され江陵に左遷まで告げられてしまったのだが、白居易はこの件に関し、元稹を弁護し、この処置に抗議する文章を三回も上奏した。第三回目の文章「元稹を論ずる第三状」(1965年)は、『白氏文集』の四十二巻に収められている。平岡武夫は「白居易の異議申立てが、発令の後すぐに行われ、また短い期間に三度繰り返し為されることから、これは勇気ある行為であり、二人の間に熱い友情が躍如している」と評している。 二人のこのような交流は、元稹が大和五年(831年)五十三歳で亡くなるまでの約三十年間、ひとときも揺るぐことなく続いた。
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