健康の悪化と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:14 UTC 版)
「ウォルト・ホイットマン」の記事における「健康の悪化と死」の解説
1873年初頭、ホイットマンは脳卒中に倒れた。同年5月に母が亡くなり、この2つの困難が重なって、ホイットマンは鬱状態に陥った。ニュージャージー州カムデンに移り、弟ジョージのもとに家賃と食費を払って滞在した後、1884年、ミクル通りに自宅を購入した。この頃、近所に住む、船長の夫を亡くした未亡人、メリー・オーケス・デイヴィス (Mary Oakes Davis) と親しくなる。1885年2月24日、彼女がホイットマンの家に移り、ただで住む代わりに家事の面倒をみることとなる。メリーは彼女とともに猫と犬を各1匹、2羽のコキジバト、1羽のカナリアなど多数の動物を連れてきた。この時期、1876年、1881年及び1889年に『草の葉』の改訂版を刊行した。 1891年の年末にかけて、ホイットマンは『草の葉』の最終版を手がけた。この版は俗に「臨終版」 ("Deathbed Edition") と呼ばれている。改訂と増補を繰り返し、389編の詩を収める大詩集となっていた。作家本人は次のように記している。「『草の葉』が遂に完成した。33年間切り刻みつづけて、私の人生のどんな時もどんな気分も、天気のいい日も悪い日も、この地のあらゆる場所で、そして戦争と平和、若さも老いも」。死を目前にして、ホイットマンは家形の花崗岩製霊廟を4000ドルで注文し、建設中の現場をたびたび訪れた。死の前の週には、ナイフもフォークも持ち上げられないほど衰弱し、「四六時中苦しい。安らぎもなく、逃げ場もない。痛みの単調、単調、単調」と記している。 ホイットマンは1892年3月26日に没した。解剖により、気管支肺炎で肺機能が通常の8分の1まで低下していたこと、そして胸にある卵ほどの大きさの膿瘍が肋骨に浸潤していたことが明らかとなった。公式記録における死因は「左側肋膜炎、右肺の消耗、一般的な粟粒結核および柔組織腎炎」であった。カムデンの自宅では遺体が公開され、3時間に千人を超える人が訪れ、オーク製のホイットマンの棺は手向けられた花や花輪で覆い尽くされほとんど見えないほどだった。死の4日後にカムデンのハーレー墓地の墓所に葬られた。墓地でも公開の式が執り行われ、友人たちの悼辞や音楽の生演奏があり、軽食が振る舞われた。この霊廟には、後にホイットマンの両親、2人の兄弟とその家族が合葬されている。
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