修業期~「青騎士」とは? わかりやすく解説

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修業期~「青騎士」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:25 UTC 版)

アウグスト・マッケ」の記事における「修業期~「青騎士」」の解説

マッケ1887年ドイツ北西部、現在はノルトライン=ヴェストファーレン州メシェデ生まれた1904年から2年ほどデュッセルドルフ美術アカデミー学んだこの頃作品としては、1906年作の『自画像』などが残っている。その後1907年には、美術コレクターのベルンハルト・ケーラーの経済的援助得てパリ滞在。後にマッケの妻となったエリーザベトは、このケーラーの姪(めい)であったパリでは特にセザンヌ作品触れ影響受けたパリ滞在の後、ベルリン移りドイツ印象派の画家であるロヴィス・コリント(1858 - 1925)のアトリエに数か月通ったコリントは、ドイツ印象派代表的画家であるとともに表現主義傾向の強い画家である。 初期には印象派セザンヌ影響からスタートしたマッケ絵画転機迎えるのは1910年、「青騎士」の主要メンバー一人であるフランツ・マルク出会った頃からである。「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)は、ロシア出身画家抽象絵画の創始者一人であるワシリー・カンディンスキーと、ミュンヘン出身フランツ・マルク中心にミュンヘン活動した前衛画家グループである。グループ活動自体は、1911年1912年の2回のグループ展の開催と、年刊機関誌青騎士』の刊行結局1回しか刊行されなかった)を行った後、第一次世界大戦の勃発受けて短命なものに終わったが、20世紀美術その後の動向大きな影響与えた運動として重要視されている。「青騎士」の2回のグループ展の参加者顔ぶれを見ると、ドイツ表現派代表的画家であるキルヒナーのほか、20世紀絵画特異な位置占めクレードローネーフォーヴィスムドランヴラマンクキュビスムピカソなど多彩な画家参加している。そこには共通した画風傾向見られず、むしろ、当時前衛美術さまざまな傾向集めた観がある。 マッケ1910年ミュンヘン初個展開催中であったマルク会い翌年にはマルク住んでいたジンデルスドルフ滞在している。また、1911年から翌年にかけてクレードローネー知り合っている。マッケはこれらの画家たちから影響を受け、中でもドローネー色彩影響強く感じられるマッケ上記2回の「青騎士」展(19111912年)に参加するとともに1912年5月のゾンダーブント展(ケルン開催され現代美術展)、同年3月ベルリン新分離派展、1913年9月ドイツ秋季サロン展(ベルリン)などの重要な展覧会相次いで出品している。

※この「修業期~「青騎士」」の解説は、「アウグスト・マッケ」の解説の一部です。
「修業期~「青騎士」」を含む「アウグスト・マッケ」の記事については、「アウグスト・マッケ」の概要を参照ください。

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