修業期~「青騎士」
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「アウグスト・マッケ」の記事における「修業期~「青騎士」」の解説
マッケは1887年、ドイツ北西部、現在はノルトライン=ヴェストファーレン州のメシェデで生まれた。1904年から2年ほどデュッセルドルフの美術アカデミーに学んだ。この頃の作品としては、1906年作の『自画像』などが残っている。その後、1907年には、美術コレクターのベルンハルト・ケーラーの経済的援助を得て、パリに滞在。後にマッケの妻となったエリーザベトは、このケーラーの姪(めい)であった。パリでは特にセザンヌの作品に触れ、影響を受けた。パリ滞在の後、ベルリンに移り、ドイツ印象派の画家であるロヴィス・コリント(1858 - 1925)のアトリエに数か月間通った。コリントは、ドイツ印象派の代表的画家であるとともに表現主義的傾向の強い画家である。 初期には印象派やセザンヌの影響からスタートしたマッケの絵画が転機を迎えるのは1910年、「青騎士」の主要メンバーの一人であるフランツ・マルクに出会った頃からである。「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター/Der Blaue Reiter)は、ロシア出身の画家で抽象絵画の創始者の一人であるワシリー・カンディンスキーと、ミュンヘン出身のフランツ・マルクを中心にミュンヘンで活動した前衛画家のグループである。グループの活動自体は、1911年と1912年の2回のグループ展の開催と、年刊機関誌『青騎士』の刊行(結局1回しか刊行されなかった)を行った後、第一次世界大戦の勃発を受けて短命なものに終わったが、20世紀美術のその後の動向に大きな影響を与えた運動として重要視されている。「青騎士」の2回のグループ展の参加者の顔ぶれを見ると、ドイツ表現派の代表的画家であるキルヒナーのほか、20世紀絵画に特異な位置を占めるクレー、ドローネー、フォーヴィスムのドランとヴラマンク、キュビスムのピカソなど多彩な画家が参加している。そこには共通した画風や傾向は見られず、むしろ、当時の前衛美術のさまざまな傾向を集めた観がある。 マッケは1910年、ミュンヘンで初個展を開催中であったマルクに会い、翌年にはマルクの住んでいたジンデルスドルフに滞在している。また、1911年から翌年にかけてクレーやドローネーと知り合っている。マッケはこれらの画家たちから影響を受け、中でもドローネーの色彩の影響が強く感じられる。 マッケは上記2回の「青騎士」展(1911・1912年)に参加するとともに、1912年5月のゾンダーブント展(ケルンで開催された現代美術展)、同年3月のベルリン新分離派展、1913年9月のドイツ秋季サロン展(ベルリン)などの重要な展覧会に相次いで出品している。
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