修正25条制定前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 17:32 UTC 版)
「アメリカ合衆国大統領代行」の記事における「修正25条制定前」の解説
1841年4月4日、就任後わずか1ヶ月で第9代大統領のウィリアム・ハリソンが死去した。その死後、大統領権限継承の規定の曖昧さを巡って憲政の危機が続いた(第2条第1節第6項)。 在任中に死去した初の大統領となったハリソンの死後間も無く、内閣は会合を開き、副大統領であったジョン・タイラーが「大統領代行を務める副大統領(Vice-President acting President)」として大統領の職を引き継ぐことを決定した。しかし、タイラーはこの肩書を受け入れず、合衆国憲法が自身に無条件、無資格の大統領権限を与えたと主張し、大統領として宣誓を行い、これは大統領死去の際の権限移行の先例となった。にもかかわらず、例えば代議士で元大統領のジョン・クィンシー・アダムズなど議会の複数のメンバーは、タイラーは一時的な大統領代行に過ぎないか、副大統領のままでいるべきと考えた。ヘンリー・クレイ議員はタイラーは副大統領であり、その大統領職務は単なる「摂政」であるとみなした。 タイラーは一貫して自身が大統領としての地位を持ち、大統領の全権限を行使できると主張した。この1841年の先例はその後、修正25条第1節が制定される前に現職大統領が死去した7回に渡って踏襲された。 大統領が死亡した際の継承に関する先例ができた後も、「inability(職務遂行能力欠如)」に関する疑問は解消されないままだった。「Inability」とは何か?誰がその有無を決定するのか?その場合副大統領は残りの任期に大統領になるのか、あるいは単に大統領として職務を遂行するにとどまるのか?これらが明確でなかったために、後の副大統領は大統領が職務遂行能力を失った時、権限を主張するのを躊躇した。 特に2回、大統領が職務を遂行できないと宣言する規定が憲法にないことで行政運営が妨げられた。 1881年、ジェームズ・ガーフィールドが銃撃された7月から死去する9月までの80日間院内総務は副大統領のチェスター・A・アーサーに大統領が職務を遂行できない間、大統領としての職務を遂行するよう求めたが、「簒奪者」と呼ばれることを恐れたアーサーは、これを拒絶した。自身が繊細な立場におり、行動が監視されることを認識していたため、アーサーは夏の間ほとんどニューヨークの自宅に引きこもっていた。 1919年10月から1921年3月、ウッドロウ・ウィルソンが脳卒中に苦しめられていた間ほとんど盲目で、体の一部が麻痺していたウィルソンは大統領任期の最後の17カ月をホワイトハウス内で人目に触れずに過ごした。副大統領のトーマス・R・マーシャル、内閣、そして国民は大統領の症状について数ヶ月間知らされないままだった。権力を熱望していると非難されるのを恐れたマーシャルは、ウィルソンの症状を聞くことや閣議を主催することを露骨に拒んだ。
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