信愛以降の北一族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 22:44 UTC 版)
北愛一の家系 彦助愛一は2150石(あるいは2500石)を知行し、その跡は子の左衛門佐直愛が2100石で継いだ。しかし左衛門佐直愛は、藩主の鷹狩において配下の勢子が獲物を逃す不祥事を起こしたため処分を受け、かつ直愛がそのまま死去したために嫡男・北愛時が500石しか継げず、大身(藩からの知行が1000石以上)から転落した。そして3代目の愛時は病ですぐ隠居してしまい、次代の北岩松は早世した。こうして北氏嫡流は断絶した。『参考諸家系図』によると、岩松が有していた北家惣領の座は愛時の弟・北愛紀が継いだという。愛紀は直愛の遺領のうち別の300石を知行し、北政末の代に分地で250石となったが加増され262石となっている。しかし北愛章のとき彼が自殺してしまい家禄収公処分となり、嫡男・北継豊が赦され再興されるが50石となり幕末に至った。直愛の弟・北愛言の長男・愛元は、愛時の次女を娶って新たに200石を有し、のち主命により本家から50石を分地され家名を北守(ほくしゅ)と改めた。愛言次男・愛路は梅田氏を称し、新たに22石を与えられて続いた。 北直継の家系(大湯南部氏) 北氏の位牌を継承した九兵衛直継の家は、八戸氏、中野氏と共に南部家中で代々家老などを歴任して大身のまま幕末に至った。3代目の北可継は、藩主南部行信が儒学を奨励したことに乗じて、七戸愛信・北川宗俊らと儒教にのっとった改革を行おうとするが失敗し蟄居処分となった(「元禄の儒者論」)。ただし彼は跡継ぎ・北恭継の死去に伴って再び家を継ぎ、再度儒者論が原因で隠居した。彼の日記『可継日記』が残っている。文政元年(1818年)、当主・南部継隆は主命により家名を南部氏に改めている。なお寛文5年(1665年)八戸藩の成立によって領地が陸奥大湯となり、またこの南部復姓のため、直継系は大湯南部氏とも称する。石高は、直継の子・北宣継のとき2150石に加増、北節継のとき新田改で2250石、継隆のとき2620石へ加増、南部済揖のとき高直しで2760石となった。明治2年(1869年)に済揖は藩が戊辰戦争に敗北するなかで謹慎・蟄居処分を受ける。のち赦され嫡男・北斉大が継ぐが南部姓ではなく北氏での取り立てであった。南部姓に復するのは斉大の子・南部済謙のときである。 その他 信愛の末子・愛久が500石を領して種市氏を称している。 信愛の外甥で養子の直吉(信景)は南部家に仕えていたが、出奔して大坂城に入り大坂の陣で豊臣方となったため、戦後に処刑されている。
※この「信愛以降の北一族」の解説は、「北氏」の解説の一部です。
「信愛以降の北一族」を含む「北氏」の記事については、「北氏」の概要を参照ください。
- 信愛以降の北一族のページへのリンク