信吉没後の穴山衆の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:02 UTC 版)
穴山衆は信吉の移封に伴い関東に移り、有泉・万沢・帯金・川方・馬場の家老衆を中心に、葦沢・佐野氏らが加わり穴山家中を取り仕切っていた。信吉の死後は有泉大学助・万沢君基(主税助)・帯金君松(形部助)・川方永養(織部)・馬場忠時(八左衛門)ら家老衆と、勘定方の葦沢伊賀守・佐野兵左衛門尉ら反家老派の対立が生じた。家老衆と反家老派の対立は常陸国山県村の年貢収納を巡り顕在化し、慶長8年(1603年)12月に家康は家老衆の万沢・帯金・川方・馬場氏と反家老派の葦沢・佐野氏を江戸へ呼び寄せ、自身の目の前で両派を対決させた。家康側近の本多正信・大久保長安らは水戸の事情を把握し、反家老衆に肩入れしていたと考えられており、慶長9年正月に家老衆の四名は改易処分となる。 家老衆の馬場忠時は小田原城主の大久保忠隣に預けられるが、忠隣は本多正信・正純親子と敵対し、慶長18年(1613年)に謀反の疑いで改易を受ける。また、これに伴い大久保長安事件が発生している。同年12月3日に家康が江戸から駿府への帰還する途中の相模国中原で、浪人であった馬場八左衛門が家康に忠隣を訴え、家康は江戸へ戻り忠隣を改易させたという。 同年12月8日に家康は穴山衆の再編を行い、佐野兵左衛門・葦沢伊賀守・川北長左衛門ら33名を水戸へ残し、慶長8年11月に家康の子徳川頼宣が水戸徳川家を起こし水戸藩主となると、穴山遺臣の一部は水戸家臣となっている。その他のものは江戸へ召し寄せられた。 穴山信君正室の見性院は信吉の没後に家康・将軍徳川秀忠により保護され、武蔵国足立郡大間村木村500石を拝領し、江戸城田安門内の比丘尼邸で過ごした。慶長18年には秀忠の侍女・お静の方が懐妊し、男子幸松丸(保科正之)が誕生した。見性院は秀忠から幸松丸の養育を任せられ、元和3年に幸松丸は信濃高遠城主・保科正光の養子となる。見性院は元和8年(1622年)5月9日に死去。
※この「信吉没後の穴山衆の動向」の解説は、「穴山氏」の解説の一部です。
「信吉没後の穴山衆の動向」を含む「穴山氏」の記事については、「穴山氏」の概要を参照ください。
- 信吉没後の穴山衆の動向のページへのリンク