保健看護研究家としての活動
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「花田ミキ」の記事における「保健看護研究家としての活動」の解説
青森県を退職後は、フリーランスの保健看護研究家として活動した。日赤で看護教育を受けた未婚者たちによる互助組織・日本赤十字社青森支部青桐会(以下、青桐会と略)で1950年から会長を務めており、同組織が活動拠点となった。講演の依頼や取材も多く受けた。 高齢化社会に向け、1980年(昭和55年)より青桐会による「看護銀行」の活動を開始した。高齢者たちが互いに労力を貸し借りし合う仕組みであり、その仲立ちに金銭に替って専用のチケットを用いることを特徴で、花田自らが銀行の頭取を名乗った。先駆的なシステムであったが、社会に根付くには至らずに終わった。翌1981年(昭和56年)には青桐会、青森県医療社会事業会、青森県地域婦人団体連合会による高齢者向けの電話相談「高齢者110番」が開始された。後にはこれが発展し、日本看護協会支部も含めた4団体で「ボランティア・あじさい」が組織され、花田も世話人を務めた。 1994年(平成6年)、フローレンス・ナイチンゲール記章受賞者に推薦された。看護師にとって世界最高の記章であるが、花田本人の固辞により受賞には至らなかった。その理由を後年に青桐会の会誌『青桐会だより』で、元従軍看護婦、戦争経験者の立場から以下の通り述べている。 (略)そして、ひとつの信念をもちました。戦争のおろかさを生涯語り継ぐこと。そして多くの戦死者たちの魂にそって生きること。戦争をした世代のひとりとして、つぐないの心をもちつづけよう、戦争にいった人間として、もし何らかの栄誉を与えられることがあったら、固辞しよう。 — 松岡 2010, pp. 138–139より引用 同1994年、元従軍看護婦としての戦中記録集『語り継ぎたい』を自費出版。1997年(平成9年)には戦争体験短歌集『燠なお消えず』を出版し、自身の戦争体験を多くの人々に伝えることを望んだ。戦後半世紀を経て戦争体験の風化が進み、戦争体験を伝えることは困難であったが、その後も自費出版を続け、知人たちに著作を送り続けた。
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