保健看護研究家としての活動とは? わかりやすく解説

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保健看護研究家としての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 20:01 UTC 版)

花田ミキ」の記事における「保健看護研究家としての活動」の解説

青森県退職後は、フリーランス保健看護研究家として活動した日赤看護教育受けた未婚者たちによる互助組織日本赤十字社青森支部青桐会(以下、青桐会と略)で1950年から会長務めており、同組織活動拠点となった講演依頼取材多く受けた高齢化社会に向け、1980年昭和55年)より青桐会による「看護銀行」の活動開始した高齢者たちが互いに労力貸し借りし合う仕組みであり、その仲立ち金銭に替って専用チケット用いることを特徴で、花田自らが銀行頭取名乗った先駆的なシステムであったが、社会根付くには至らず終わった。翌1981年昭和56年)には青桐会、青森県医療社会事業会、青森県地域婦人団体連合会による高齢者向けの電話相談高齢者110番」が開始された。後にはこれが発展し日本看護協会支部含めた4団体で「ボランティアあじさい」が組織され花田世話人務めた1994年平成6年)、フローレンス・ナイチンゲール記章受賞者に推薦された。看護師にとって世界最高の記章であるが、花田本人固辞により受賞には至らなかった。その理由後年青桐会の会誌青桐会だより』で、元従軍看護婦戦争経験者立場から以下の通り述べている。 (略)そして、ひとつの信念もちました戦争のおろかさを生涯語り継ぐこと。そして多く戦死者たちの魂にそって生きること戦争をした世代ひとりとしてつぐないの心をもちつづけよう、戦争にいった人間として、もし何らかの栄誉与えられることがあったら固辞しよう。 — 松岡 2010, pp. 138139より引用1994年、元従軍看護婦としての戦中記録集語り継ぎたい』を自費出版1997年平成9年)には戦争体験短歌集『燠なお消えず』を出版し自身戦争体験多く人々伝えることを望んだ戦後半世紀経て戦争体験風化進み戦争体験伝えることは困難であったが、その後自費出版続け知人たちに著作送り続けた

※この「保健看護研究家としての活動」の解説は、「花田ミキ」の解説の一部です。
「保健看護研究家としての活動」を含む「花田ミキ」の記事については、「花田ミキ」の概要を参照ください。

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