位置と規模
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 10:20 UTC 版)
丹南陣屋の正確な位置や建物の詳細を知る手がかりは極めて少なく、1873年(明治6年)3月の「丹南村地籍図」が唯一のものである。この地籍図には1筆ごとに地番が記されており、地目ごとに色分けされている。丹南陣屋は「邸内地」と記されているのみで区画内の詳細な様子は描かれていない。また、陣屋南西の西除川右岸に丹南県操練場が存在したことがわかる。陣屋内の建物配置については、1880年(明治13年)1月の「丹南村地籍図」、敷地内に残る「陣屋」「学校敷」「学校内」の小字名、そして発掘調査成果より陣屋の西側に役所機能があり藩校「丹南学校」が併設されたと推測できる。 上田一は地籍図と住民への聞き取りより陣屋復元案を作成しており、これによると東西最長235メートル強、南北190メートル強の約5900坪余りとなる。また、丹南村北端を東西にのびる道の北側に陣屋正門が南向きに建ち、道を挟んだ南に御用地が存在した。 江戸定府であったため陣屋には代官以下わずかな家臣のみが常駐したようであるが、幕末から版籍奉還の頃までに藩主以下江戸詰の家臣が引き揚げてきた。そのため、急速に建物の増築と整備が進められたと伝わる。陣屋東側に家臣の住居が集まり、庄屋宅北裏には下士の家屋が立ち並んだそうである。また、来迎寺の間にも家臣長屋が存在し、更には丹南村に分宿した者もいたと伝わる。これら建物の痕跡は1880年(明治13年)の地籍図で一部を確認することができる。 1874年(明治7年)に作成された丹南村の壱村限調帳には士族の家が80戸、人口324人(男157人、女167人)と記載があることから、陣屋及びその周辺に居住した家臣とその家族は最大でもこの規模と考えられる。
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