会の設立目的
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岡村勲(山一証券代理人弁護士夫人殺人事件、元日本弁護士連合会副会長)は、仕事で逆恨みされ1997年10月、夫人を殺害されて犯罪被害者となった。法廷では、犯罪被害者には何一つ権利がないことを痛感し、犯罪被害者が裁判から排除されている現状を新聞に投稿にした。 それを読んだ林良平(西成看護師殺人未遂事件)は、岡村に「立ち上がって頂けませんか」と手紙を出し、光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋らと共に、遺族5人が岡村の法律事務所に初めて集まった。岡村勲の提案により、2000年1月23日に第一回シンポジウム「犯罪被害者は訴える」が開催された。犯罪被害者自らが権利と被害回復制度の確立を求めて、「犯罪被害者の会」(全国犯罪被害者の会)を設立したことから、この市民運動が始まった。 当時、被害者には僅かな犯罪被害者等給付金以外の公的支援はなく、好奇と偏見の目に晒され極めて惨めなものだった。葬式も出さないうちから捜査に協力させられ、起訴状も貰えず、裁判の日も、判決の日も知らされなかった。犯罪で怪我をしても治療費は被害者負担だった。裁判では被害者は証拠品扱いにされ、事件当事者にも関わらず、裁判から完全に除外され、蚊帳の外に置かれていた。その状況を社会に訴え、「犯罪被害者の権利」と「被害回復制度の確立」を目指して、国や社会に働きかけた。その経緯は「雲外蒼天」「一瀉千里」「犯罪被害者の声が聞こえますか」 に綴られている。 犯罪被害者自ら初めて立ち上がり、被害者救済運動を起こしたのは、市瀬朝一であったが、その市民運動は既に消退して30数年過ぎていた。市瀬朝一については、新聞記者として当時取材していた飯島尚幸が、2006年の犯罪被害者週間創設記念大会で語っている。
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