人種: ジム・クロウ法から公民権運動まで
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「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「人種: ジム・クロウ法から公民権運動まで」の解説
リディーマーが1870年代中部に支配を取り戻した後、人種差別を合法とするジム・クロウ法が創設された。最も過激な白人指導者はサウスカロライナ州選出のアメリカ合衆国上院議員ベン・ティルマンであり、1900年には「我々は(黒人が投票することを妨げる)最善の手段を尽くした。彼等の最後の者までを除外できる方法を捻り出した。投票箱を封じた、彼等を撃った、それを恥じてはいない。」と誇らかに宣言した。 南部の黒人は投票権が無く、政府に代表もおらず、人種分離と差別の仕組みを課された。黒人と白人は別々の学校に通った。黒人は陪審員となることができず、法的に保護される可能性が少ないことを意味していた。この時代のリチャード・ライトの自伝的証言である『ブラックボーイ』では、白人を「サー」と呼ばなかったことで瓶で殴られ、動いているトラックから突き落とされたと書いている。全米黒人地位向上協会によると、1889年から1922年までに私刑が歴史上最悪のレベルに達し、ほぼ3,500名、その5分の4は黒人が殺された。 このような待遇に対する反応として20世紀におけるアフリカ系アメリカ人の生活に2つの大きな出来事が起こった。すなわち、大移動と公民権運動だった。 大移動は第一次世界大戦の間に始まり、第二次世界大戦の間に最大となった。この移動で黒人は人種差別と成功する機会の無い南部から離れ、工場労働者など経済の各分野で仕事を見付けられるシカゴのような北部都市に移住した。この移動によって黒人社会の間に新しく自立感が生まれ、ハーレム・ルネサンスに見られるような活発な黒人都市文化に繋がっていった。 この移動は成長しつつあった公民権運動にも力を与えた。公民権運動はアメリカ合衆国のあらゆる場所に存在したが、その焦点は南部のジム・クロウ法だった。この運動で主要な事件の大半は南部で起こった。すなわちモンゴメリー・バス・ボイコット事件、ミシシッピの自由の夏、アラバマ州セルマの行進、およびマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの暗殺だった。さらにキングによる『バーミングハム刑務所からの手紙』のように運動の中から生まれた重要な著作の幾つかも南部で書かれた。 1964年と1965年の公民権法が成立した結果、南部中のジム・クロウ法は撤廃された。南部の人種問題におけるこの変化は、地域の新しい工業化と結びついて、ニューサウスと呼ばれるものを創り出すことになった。
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