五階校舎のその後とは? わかりやすく解説

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五階校舎のその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/02 09:28 UTC 版)

旧見付学校」の記事における「五階校舎のその後」の解説

1922年大正11年)には五階校舎小学校として役割終えた1919年大正8年)の静岡県議会静岡県立見中学校(現・静岡県立磐田南高等学校)の設立決定されると、1922年4月1日から7月までの約3か月間のみ、暫定的に五階校舎見付中学校授業が行われた。7月には現在地新築された校舎移転している。8月には五階校舎大日本見付連武館という名称となり、見付尋常高等小学校柔道部稽古場として使用した大日本見付連武館は1925年大正14年3月廃止されている。 1925年には私立見付高等裁縫女学校が五階校舎利用することとなった1927年昭和2年4月には町立見付高等裁縫女学校改称1935年昭和10年4月には見付町高等裁縫女子青年学校改称している。1937年昭和14年9月には旧見付高等女学校校舎移転した1939年昭和14年9月から1943年昭和18年3月までの期間、磐田郡中遠教育会による准教員養成所が五階校舎利用した太平洋戦争中には公民館的な集会施設としても利用された。1945年昭和20年1月には浜松陸軍病院見付臨時分院となり、同年春頃からこの建物内負傷兵士や戦災者の治療が行われた。 戦後1946年昭和21年5月には国民健康保険組合磐田病院となったが、1952年昭和27年3月には中泉移転し磐田市磐田病院となっている。1953年昭和28年9月には磐田市立郷資料館となり、1955年昭和30年12月28日には博物館相当施設指定された。1957年昭和32年5月13日には静岡県指定文化財となり、1969年4月12日には建物学校敷地含めた土地磐田文庫とともに国の史跡指定された。密接な関係を有する磐田文庫旧見付学校建物移築されことなく現存していることは価値が高いとされる1992年平成4年1月には磐田市立郷資料館から磐田市旧見付学校改称した

※この「五階校舎のその後」の解説は、「旧見付学校」の解説の一部です。
「五階校舎のその後」を含む「旧見付学校」の記事については、「旧見付学校」の概要を参照ください。

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