五階校舎のその後
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1922年(大正11年)には五階校舎が小学校としての役割を終えた。1919年(大正8年)の静岡県議会で静岡県立見付中学校(現・静岡県立磐田南高等学校)の設立が決定されると、1922年4月1日から7月までの約3か月間のみ、暫定的に五階校舎で見付中学校の授業が行われた。7月には現在地に新築された校舎に移転している。8月には五階校舎が大日本見付連武館という名称となり、見付尋常高等小学校の柔道部が稽古場として使用した。大日本見付連武館は1925年(大正14年)3月に廃止されている。 1925年には私立見付高等裁縫女学校が五階校舎を利用することとなった。1927年(昭和2年)4月には町立見付高等裁縫女学校に改称、1935年(昭和10年)4月には見付町立高等裁縫女子青年学校に改称している。1937年(昭和14年)9月には旧見付高等女学校校舎に移転した。1939年(昭和14年)9月から1943年(昭和18年)3月までの期間、磐田郡中遠教育会による准教員養成所が五階校舎を利用した。太平洋戦争中には公民館的な集会施設としても利用された。1945年(昭和20年)1月には浜松陸軍病院見付臨時分院となり、同年春頃からこの建物内で負傷兵士や戦災者の治療が行われた。 戦後の1946年(昭和21年)5月には国民健康保険組合立磐田病院となったが、1952年(昭和27年)3月には中泉に移転し、磐田市立磐田病院となっている。1953年(昭和28年)9月には磐田市立郷土資料館となり、1955年(昭和30年)12月28日には博物館相当施設に指定された。1957年(昭和32年)5月13日には静岡県指定文化財となり、1969年4月12日には建物に学校の敷地を含めた土地が磐田文庫とともに国の史跡に指定された。密接な関係を有する磐田文庫と旧見付学校の建物が移築されることなく現存していることは価値が高いとされる。1992年(平成4年)1月には磐田市立郷土資料館から磐田市旧見付学校に改称した。
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