五十首応募への投稿
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「短歌研究」は1953年12月号に五十首公募の実施を発表した。「辛夷短歌会」の主催者、野原水嶺は同人のふみ子と大塚陽子に応募するよう勧めた。もともと短歌で名の成したいと願っていたふみ子自身も乗り気であった。 ところでふみ子の癌の再発が判明し、再手術そして札幌医科大学附属病院への入院待ちをしている時期、短歌結社の「新墾」は内部対立に見舞われていた。「新墾」は全国組織の短歌結社、「潮音」の影響下にあったが、若手同人の中から「潮音」の影響下からの脱却を求める声が噴出したのである。結局「新墾」から若手同人の脱退者が相次ぎ、山名康郎を中心とした脱退者は新組織の「凍土」を立ち上げた。 「新墾」の中で有力歌人であったふみ子のところにも「凍土」に参加するように誘いが来た。ふみ子はもう長く生きられないと思っており、今のうちにやりたいことはやっておきたいと、凍土への参加を承諾した。しかしふみ子は他の参加者とは異なり、「新墾」から脱退することはなかった。 1954年(昭和29年)の新年、ふみ子は入院待ちの状態のまま帯広で迎えた。正月早々、ふみ子は山名康郎と会っている、ふみ子は山名に「野原先生から是非出すように勧めるのだけど自信が無いの」と言いつつ、「冬の花火」と題された約30首の歌を見せられた。一読した山名は激賞し、絶対に応募するように勧めた。この時山名は「ある乳癌患者のうた」との副題を付けた上、応募の原稿用紙が目立つように赤いリボンで綴じるアイデアを出した。またこの時ふみ子は山名に「入院したら毎日お見舞いに来るように」お願いした。結局山名は日課のように仕事帰りにふみ子の病室に顔を出すようになる。 1月7日、ふみ子は札幌医科大学附属病院に入院する。入院時点で約40首が完成していたと伝えられている。締め切りは1月15日、病床で残りの10首を完成させ、題は「冬の花火」、副題は山名が勧めた「ある乳癌患者のうた」、そして原稿用紙に赤いリボンを付け、締め切り直前に郵送した。
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