事件の首謀者・関係者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:07 UTC 版)
実際の暗殺の首謀者や実行者は誰であったかについては複数の学説が存在しているものの、日本における歴史研究のほとんどでは三浦梧楼らの計画に発し、その指揮によるものとする。堀幸雄は、「玄洋社、関東自由党、熊本神風連の子弟ら50人が安達謙蔵を部隊長に王宮に乱入し閔妃を殺害したのである。」と書いている。 事件当時、在朝鮮日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと告白している。また裁判では「手段は前年7月の王宮占領に比べ、はるかに穏和で、前年の挙を政府は是認している以上は、後任公使がこれにならって行った今回の挙もこれを責めることはできない」との内容の供述を行っている。 当時外務省領事官補だった堀口九萬一が事件翌日の1895年10月9日に送った書簡が2021年に発見され、その書簡には、「(王宮への)進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸く奥御殿に達し、王妃を弑し申候」と書かれていることがわかった。事件後の広島裁判で堀口九萬一は無罪となり、外交官に復職し、諸国に赴任した。 日本政府が直接関与したかについては否定的な見方が多く、秦郁彦は日本政府の関与については「証拠不足」との見解を示している。背後関係について言及した近年の学説では、崔文衛による前任の公使であった井上馨の主謀論、金文子による井上が「更迭」され、後任として三浦が川上操六ら大本営の意を受けて送り込まれたとの説がある。なお、事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、政府の意思ではないだろう(「我政府の内意に出でたるものにあらざるべし」)が、前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため処分について当惑していると記されている(10月19日付)。
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