久世の典学館と「久世条教」
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「早川正紀」の記事における「久世の典学館と「久世条教」」の解説
1787年(天明7年)、久世に赴任した正紀は、自身あるいは御教役による廻村教育を行なった。その後、寺院に毎月、檀家を対象とした教育を義務づけ、さらに広く村民を対象にした教育にも注力した。ちなみに、徳のある村民を教師として置いたと言う。 1791年(寛政3年)に久世教諭所を開設。1794年(寛政6年)に教育の大旨を示達。翌1795年(寛政7年)、久世に典学館を起工。1796年(寛政8年)に完成している。典学館の名前は、常に学問に従事する、という意味である。 典学館の世話役には、久世教諭所建立の世話人でもあった、久世村の蔵屋林兵衛、杉山助太夫、杉山順庵、目木村の大庄屋であった福島三郎左衛門を任命した。特筆すべきは、代官所の出資が皆無。すべて民間出資のみで賄われた点である。それほど、正紀による民衆への教育、教育の必要性が行き届いていたのである。民間出資の学問所は当時、先進的であった。1797年(寛政9年)、それらが評価され、幕府より黄金3枚、時服2領が褒賞として贈られている。 典学館の教師は、代官御雇「御教役」真野民次が兼任。後に、儒者で医者の菊池正因が引き継いでいる。その教育は、武士および農商層の子弟を対象。学問に限らず、行儀やしつけにも及んだと言う。経書、史書、詩文集のほか、孝経、論語、孟子、大学、中庸などを教科書にしていた。 また、正紀の自著「久世条教」も教科書になっていた。内容は下記のとおり。 国を支える農業や養蚕に精を出す 親に孝行、兄弟は仲良くする 相手の言い分も聞き、すぐ訴訟しない 無駄を省き、社会を豊かにする 年貢等の税はきちんと納める 間引きは絶対にしない お互いに尊敬し、礼儀正しくする。
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