中道政治の始まり
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1946年には国民投票が行われ、政体は共和制が選択された。連立内閣を組んでいたキリスト教民主党(DC、以下民主党)、イタリア共産党(PCI、以下共産党)、イタリア社会党(PSI、以下社会党)は成憲議会で憲法草案を起草し1948年にイタリア共和国憲法が施行された。 コミンフォルムに共産党が加盟した同じ1947年5月、民主党のデ・ガスペリは連立内閣から社共を排除。1948年4月の総選挙に得票率48. 5%で勝利。中道政権は冷戦が始まると社共の反対を押して1949年3月に北大西洋条約機構に加盟。戦後初期の外交は対米関係に軸足があった。1951年に欧州石炭鉄鉱共同体条約に調印した。 1947年のパリ講和条約により、フランス国境に若干の変更があったほか、東部国境はユーゴスラビア側に動かされ、トリエステ市の周辺は自由圏に指定された。 このことによりマーシャル・プランを通じての経済復興が進む。1950年代-1960年代を通じて後に「奇跡的復興」とよばれる長期にわたる経済成長が実現。このことにより政情不安を抱えながらもイタリアは大国へ返り咲いた。1954年には米英軍の統治下にあった自由圏Aゾーンおよびユーゴスラビア軍の統治下にあった自由圏Bゾーンがそれぞれイタリア、ユーゴスラビアへと分割され帰属することとなる。 1976年5月6日、イタリア北部のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州を震源とするフリウリ地震が発生。多数の死者、建造物倒壊などの被害が発生した。
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