中濃・北濃の支配
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永禄4年(1561年)5月に義龍が急死すると、道三の娘婿である尾張国の織田信長が美濃に侵入し在陣を続けたため、長井道利と義龍の子・斎藤龍興が和睦した事を瑞龍寺の書状が伝えており(年不詳6月6日付関善寺(信濃)宛瑞龍寺(美濃)文書「別伝座元悪行記」所収文書)、同年の墨俣における合戦中の出来事と考えられる。そして、長井道利は斎藤義龍または斎藤龍興の重臣と不和だったことも伺える。 また、6月16日付で信濃国を領国化し東濃・苗木城の遠山直廉と連携していた武田信玄から、長井道利は助勢の書状を受け取っている。その内容(原文下記)は、「井の口(岐阜)より出陣の知らせがあり、信州の兵に出陣の準備をさせている。10日以上の長陣であれば自ら出陣するが、敵が退散し安心した。今後も加勢…」とあり、永禄4年(1561年)6月の墨俣において織田信長が長陣した場合、斎藤龍興・長井道利に加勢するとの内容と推測される。なお、永禄3年(1560年)6月に斎藤義龍と長井道利が不和となり、対峙した内容とも読める。 「自井口働之由、注進候間、則信州先申付可遣候、仕度専候き、其上及十日之長陣者、出馬可逐一戦之旨、談合候處、無功退散、先以心地好候、於向後者、其身上無二へ可見積心底候、加勢城米等、無隔心可被申越候、委曲長延寺・甘利可申候、恐々謹言」信玄(判) 長井隼人殿(年不詳6月16日付書状写「古今消息集十」) 永禄5年(1561年)に郡上郡八幡城主の遠藤盛数が死去し、子の慶隆が13歳で後を継ぐと、危機を憂慮した慶隆の老臣たちの決定で、道利は盛数の未亡人(慶隆の母)と結婚し、慶隆の後見人となった。 永禄7年(1564年)2月の竹中重治の稲葉山城奪取に乗じて郡上木越城主遠藤胤俊が八幡城を攻め取り、遠藤慶隆は苅安城に逃れた。斎藤龍興が稲葉山城を取り返すと、翌永禄8年(1565年)に道利は苅安城の慶隆へ援軍を送り、胤俊に八幡城を返却させた。 長井道利と武田信玄との友好関係はその後も続いており、永禄7年10月には快川紹喜の甲斐への道中の安全を頼まれている。この関係は、永禄8年に信玄が斎藤氏と敵対する織田信長と婚姻関係を結ぶまで続いたと考えられる。 顔戸八幡神社(現御嵩町)の棟札によれば、道利は永禄8年4月時点で、少なくとも可児・加茂地方を龍興の代官として支配しており、金山城も支配下にあった。また、関城は中世城館としての遺構はほとんど見られないため、関城主というより金山城を本拠として斎藤政権の東部方面軍を指揮していたと考えられる。
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