中濃・北濃の支配とは? わかりやすく解説

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中濃・北濃の支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 04:07 UTC 版)

長井道利」の記事における「中濃・北濃の支配」の解説

永禄4年1561年5月義龍急死すると、道三の娘婿である尾張国織田信長美濃侵入し在陣を続けたため、長井道利義龍の子斎藤龍興和睦した事を瑞龍寺書状伝えており(年不詳6月6日付関善寺(信濃)宛瑞龍寺(美濃)文書別伝座元悪行記」所収文書)、同年墨俣における合戦中の出来事考えられる。そして、長井道利斎藤義龍または斎藤龍興重臣不和だったことも伺える。 また、6月16日付で信濃国領国化し東濃苗木城遠山直廉連携していた武田信玄から、長井道利助勢書状受け取っている。その内容原文下記)は、「井の口岐阜)より出陣知らせがあり、信州の兵に出陣準備をさせている。10日上の長陣であれば自ら出陣するが、敵が退散し安心した今後加勢…」とあり、永禄4年1561年6月墨俣において織田信長が長陣した場合斎藤龍興長井道利加勢するとの内容推測される。なお、永禄3年1560年6月斎藤義龍長井道利不和となり、対峙した内容とも読める。 「自井口働之由、注進候間、則信州申付可遣候、仕度専候き、其上及十日之長陣者、出馬逐一戦之旨、談合候處、無功退散、先以心地好候、於向後者、其身上無二へ可見積心底候、加勢城米等、無隔心可被申越候、委曲長延寺甘利可申候、恐々謹言信玄(判) 長井隼人殿(年不詳6月16日書状写「古今消息集十」) 永禄5年1561年)に郡上郡八幡城主の遠藤盛数死去し、子の慶隆が13歳後を継ぐと、危機憂慮した慶隆の老臣たちの決定で、道利は盛数の未亡人(慶隆の母)と結婚し、慶隆の後見人となった永禄7年1564年2月竹中重治稲葉山城奪取乗じて郡上木越城主遠藤胤俊八幡城攻め取り遠藤慶隆苅安城に逃れた斎藤龍興稲葉山城取り返すと、翌永禄8年1565年)に道利は苅安城の慶隆へ援軍送り、胤俊に八幡城返却させた。 長井道利武田信玄との友好関係その後続いており、永禄7年10月には快川紹喜甲斐へ道中の安全を頼まれている。この関係は、永禄8年信玄斎藤氏敵対する織田信長婚姻関係を結ぶまで続いた考えられる顔戸八幡神社(現御嵩町)の棟札によれば、道利は永禄8年4月時点で、少なくとも可児加茂地方龍興代官として支配しており、金山城支配下にあったまた、関城中世城館としての遺構はほとんど見られないため、関城主というより金山城本拠として斎藤政権東部方面軍指揮していたと考えられる

※この「中濃・北濃の支配」の解説は、「長井道利」の解説の一部です。
「中濃・北濃の支配」を含む「長井道利」の記事については、「長井道利」の概要を参照ください。

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