中濃攻略後(合戦後)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 13:55 UTC 版)
岸一族は堂洞城で散ったが、岸信周の子・岸信清や岸信房の子・栄姫ら一族は生き残り繁栄する。岸信貞の子・岸新右衛門は森可成に仕える事となった。 織田軍が中濃攻略を行ったことにより、斎藤氏は東濃との連絡がつかなくなることと、武田氏との同盟も無意味になり、斎藤氏の勢力は西濃のみとなった。その西美濃でも斎藤氏に離反し、美濃三人衆(西美濃三人衆)は領土を安堵され、利治の家臣団となった。 肥田忠政は中濃攻略戦後、信長に降り領土安堵の末、利治家臣団与力に組み込まれた。 長井道利は中濃の支配が完全になくなり、龍興と共に美濃国から追われる事となる。 斎藤龍興は加治田衆の内通を筆頭に家臣に裏切られ、勢力が衰退し、岐阜城を織田軍に攻略され、滅亡(美濃国から脱出)した。 美濃斎藤氏は、信長の正室濃姫の実弟である斎藤利治が正式に認められ、継承する。兄の斎藤利堯も利治が加治田城留守居に任じ、後に信長・信忠に仕える事となる。 美濃佐藤氏も利治の親族衆となる。佐藤忠能の養子(正室・正室院)となり美濃国と飛騨国出入り口要所である二代目加治田城城主となり、加治田衆家臣団も利治の親衛隊として仕えた。
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