中流域より下流側
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 12:22 UTC 版)
ナイル川流域、特に下流のエジプトは、世界で最も古い文明の興った土地として知られている。エジプト語では「大きな川」という意味の Iteru と呼ばれた。紀元前3800年頃には既に古代エジプト文明が成立しており、紀元前3150年頃には統一国家を形成してエジプト古王国が成立し、以後も肥沃なナイル川流域を基盤として独自の文明を築いた。その南の地域であるヌビアにおいても、エジプト文明の影響を受けて王国が形成され、紀元前2200年頃にはクシュ王国が建国された。クシュはエジプト新王国のトトメス1世によって滅ぼされたものの、紀元前900年頃に、ナイル第4急流の傍に形成された都市であるナパタ(ゲベル・バルカル)において再興し、紀元前747年には逆に第3中間期のエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を建設した。その50年後にアッシリアのアッシュールバニパルに敗れて第25王朝はエジプト支配を失ったが、ナパタの王朝はそのまま存続し、紀元前6世紀頃に南のメロエへ遷都後も長く栄えた。メロエは鉄鉱石と樹木が豊富であり、盛んに製鉄が行われた。 やがて下流のエジプトはペルシア帝国に支配され、アレクサンドロス帝国に支配された後、ギリシア系のプトレマイオス朝の元で独立を回復した。しかし紀元前30年のクレオパトラ7世の時代に、アクティウムの海戦によってローマ帝国に支配され独立を失い、皇帝直轄地のアエギュプトゥスとなった。 一方でヌビアの独立は、この時代も保たれた。メロエの王国が滅ぼされたのは350年頃で、エチオピア北部を本拠とするアクスム王国によってとされているが、異説もある。メロエ滅亡後、ヌビアは北のノバティア、ドンゴラを首都とする中部のマクリア、ハルツーム周辺を本拠とする南のアロディアの3王国に分かれた。 395年にはローマ帝国は東西に分裂し、エジプトは東ローマ帝国領となった。4世紀から5世紀にかけてはエジプトでもヌビアでもキリスト教が受け入れられたが、639年のイスラム帝国の侵攻によってエジプトは征服され、以後イスラム化した。なお、その後もヌビア地域ではキリスト教王国が長く命脈を保ったものの、北のイスラム勢力からの圧力によって徐々に弱体化し、最後まで残ったアロディアも14世紀頃には滅亡して、イスラム教徒によるフンジ王国などが建国された。19世紀に入るとエジプトでオスマン帝国から半独立の王朝を作り上げたムハンマド・アリーがヌビアへと侵攻し、フンジ王国を滅ぼし、さらにその南に居住するヌエル人やディンカ人やシルック人を征服して、現在のスーダンの版図に至る中流域をエジプトの支配下に組み入れた。イスマーイール・パシャの時代にはさらに南下して、1869年にはスーダン南端のゴンドコロ(現在のジュバ)まで侵攻して支配下にして赤道州を設置し、1874年にはチャールズ・ゴードンを初代総督に任命してウガンダ方面への進出を図った。
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