中島家・漢学の系譜とは? わかりやすく解説

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中島家・漢学の系譜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)

中島敦」の記事における「中島家・漢学の系譜」の解説

中島家遠祖古く尾張中島郡領した中島氏であるとされるその後京都移りやがて江戸来住してから、代々日本橋新乗物町現在の東京都中央区日本橋堀留町)で駕籠製造販売する商家となった中島家累代の墓は台東区元浅草四丁目光明寺にある。 中島敦祖父中島家第12代当主中島慶太郎(号は撫山)は家業を嫌い、14歳のときに儒学者亀田鵬斎孫弟子としての子亀田綾瀬門下となり、綾瀬没後その後継者の亀田鶯谷師事した。のちに埼玉県南埼玉郡久喜町(現・久喜市)に漢学塾幸魂こうこん)教舎」を開いた。撫山には先妻との間に第13代当主長男・靖(号は綽軒(しゃくけん))がおり、亀田鶯谷門下だった綽軒も栃木に「明誼(めいぎ)学舎」を開いた漢学者であったが、父に先立ち54歳亡くなった中島敦私記斗南先生』で活写されている伯父中島端(号は斗南)は、撫山と後妻との息子実際には撫山の次男となるが、戸籍謄本上は撫山の長男として記載されている。斗南亀田鶯谷のもとで漢学学び宮内翁助とともに私立中教育機関明倫館」の創設携わったほか、中国問題に関する評論など著した斗南の下の伯父中島竦(号は玉振)も漢学者で、善隣書院モンゴル語中国語教授しつつ、中国古代文字甲骨文字などの研究行った人物であった。 ほかに関翊(たすく)・山本中島多吉(ひたき)などの伯父叔父がおり、みな漢学素養持って世に出ている。中島家では成人する男子は「立」偏の一文字を名前とする習慣があったが、四男の開からは墨守されなくなり、五男の田人からは万葉仮名風の大和言葉になった中島家漢学系譜村山吉廣により調査され、『評伝中島敦 家学からの視点』(中央公論新社2002年)としてまとめている。

※この「中島家・漢学の系譜」の解説は、「中島敦」の解説の一部です。
「中島家・漢学の系譜」を含む「中島敦」の記事については、「中島敦」の概要を参照ください。

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