中島家・漢学の系譜
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中島家の遠祖は古く尾張中島郡を領した中島氏であるとされる。その後は京都に移りやがて江戸に来住してから、代々、日本橋新乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)で駕籠を製造販売する商家となった。中島家累代の墓は台東区元浅草四丁目の光明寺にある。 中島敦の祖父の中島家第12代当主・中島慶太郎(号は撫山)は家業を嫌い、14歳のときに儒学者・亀田鵬斎の孫弟子として鵬斎の子の亀田綾瀬の門下となり、綾瀬没後はその後継者の亀田鶯谷に師事した。のちに埼玉県南埼玉郡久喜町(現・久喜市)に漢学塾「幸魂(こうこん)教舎」を開いた。撫山には先妻との間に第13代当主の長男・靖(号は綽軒(しゃくけん))がおり、亀田鶯谷門下だった綽軒も栃木に「明誼(めいぎ)学舎」を開いた漢学者であったが、父に先立ち54歳で亡くなった。 中島敦の私記『斗南先生』で活写されている伯父・中島端(号は斗南)は、撫山と後妻との息子で実際には撫山の次男となるが、戸籍謄本上は撫山の長男として記載されている。斗南も亀田鶯谷のもとで漢学を学び、宮内翁助とともに私立中等教育機関「明倫館」の創設に携わったほか、中国問題に関する評論などを著した。斗南の下の伯父・中島竦(号は玉振)も漢学者で、善隣書院でモンゴル語・中国語を教授しつつ、中国古代文字の甲骨文字などの研究を行った人物であった。 ほかに関翊(たすく)・山本開蔵・中島比多吉(ひたき)などの伯父・叔父がおり、みな漢学の素養を持って世に出ている。中島家では成人すると男子は「立」偏の一文字を名前とする習慣があったが、四男の開蔵からは墨守されなくなり、五男の田人からは万葉仮名風の大和言葉になった。中島家の漢学の系譜は村山吉廣により調査され、『評伝・中島敦 家学からの視点』(中央公論新社、2002年)としてまとめている。
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