中山晋平との出会いとは? わかりやすく解説

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中山晋平との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:34 UTC 版)

新橋喜代三」の記事における「中山晋平との出会い」の解説

1930年昭和5年)秋、鹿児島では昭和恐慌以来なかなか回復しない経済閉塞感打開する気運作ろうと、鹿児島商工会議所主催鹿児島市鹿児島県後援により「國産振興博覧會」(会期翌年4月1日5月15日)が企画され、その宣伝ソング作る話が持ち上がる作家として指名されたのは作詞西條八十作曲中山晋平の両巨匠であった1931年昭和6年2月5日、その二人取材のために鹿児島訪れ料亭青柳」での接待宴席呼ばれたのが喜代であった。その席で喜代治は一八直伝の『小原良節』を披露している。 西條歌詞取材のために鹿児島市内各地歩き回っていたが、作詞終わらないことには作曲出来ないため、中山滞在中度喜代治を呼び出して鹿児島民謡聞いたりして過ごした。この時に喜代治は一八から教わった小原良節』の歌い方について、自分なり工夫をした点の善し悪し相談したところ、喜代治なりの歌い方で良い励まされた。 西條の詞の完成待って中山作曲始められ滞在6日目にだいたい出来上がると、市内3券番(南・西・中券番)の芸者代表として喜代治が中山より直接歌唱指導され、他の芸者前にしての模範歌唱行なった。また振り付け中山自らが行ない、それを喜代治に教えて喜代治から他の芸妓伝えられた。 ちなみにその國産振興博覧會宣伝ソングとして出来上がったのは、当時既に人気歌手となっていた芸者出身藤本二三吉歌った鹿児島小唄』(カップリング作詞・作曲・唄とも同じメンバーで『鹿児島夜曲』)で、博覧会会場設けられ演芸館で連日鹿児島市内3券番の芸者連中舞踊演奏でこの曲を披露し喜代治も南券番の唄方として名を連ねている。 鹿児島滞在中から喜代治に恋心寄せていた中山は、鹿児島離れた僅か4ヶ月後、歌を作る為に西條と共に訪れていた福岡県久留米市から、喜代治に会うためだけに西條伴って再度鹿児島訪れている。(後の西條述懐によると、出会った当初から中山喜代治に一目惚れしていたことに西條気付いていたとのこと)また喜代治も中山人柄に触れ尊敬の念次第恋愛感情へと変わって行った

※この「中山晋平との出会い」の解説は、「新橋喜代三」の解説の一部です。
「中山晋平との出会い」を含む「新橋喜代三」の記事については、「新橋喜代三」の概要を参照ください。

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