中山晋平との出会い
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1930年(昭和5年)秋、鹿児島では昭和恐慌以来なかなか回復しない経済の閉塞感を打開する気運を作ろうと、鹿児島商工会議所の主催、鹿児島市・鹿児島県の後援により「國産振興博覧會」(会期は翌年の4月1日〜5月15日)が企画され、その宣伝ソングを作る話が持ち上がる。作家として指名されたのは作詞が西條八十、作曲が中山晋平の両巨匠であった。 1931年(昭和6年)2月5日、その二人が取材のために鹿児島を訪れ、料亭「青柳」での接待の宴席に呼ばれたのが喜代治であった。その席で喜代治は一八直伝の『小原良節』を披露している。 西條は歌詞の取材のために鹿児島市内各地を歩き回っていたが、作詞が終わらないことには作曲出来ないため、中山は滞在中度々喜代治を呼び出しては鹿児島の民謡を聞いたりして過ごした。この時に喜代治は一八から教わった『小原良節』の歌い方について、自分なりの工夫をした点の善し悪しを相談したところ、喜代治なりの歌い方で良いと励まされた。 西條の詞の完成を待って中山の作曲が始められ、滞在6日目にだいたい出来上がると、市内3券番(南・西・中券番)の芸者代表として喜代治が中山より直接歌唱指導され、他の芸者を前にしての模範歌唱を行なった。また振り付けも中山自らが行ない、それを喜代治に教えて喜代治から他の芸妓へ伝えられた。 ちなみにその國産振興博覧會の宣伝ソングとして出来上がったのは、当時既に人気歌手となっていた芸者出身の藤本二三吉が歌った『鹿児島小唄』(カップリングは作詞・作曲・唄とも同じメンバーで『鹿児島夜曲』)で、博覧会の会場に設けられた演芸館で連日鹿児島市内3券番の芸者連中が舞踊と演奏でこの曲を披露し、喜代治も南券番の唄方として名を連ねている。 鹿児島滞在中から喜代治に恋心を寄せていた中山は、鹿児島を離れた僅か4ヶ月後、歌を作る為に西條と共に訪れていた福岡県久留米市から、喜代治に会うためだけに西條を伴って再度鹿児島を訪れている。(後の西條の述懐によると、出会った当初から中山が喜代治に一目惚れしていたことに西條は気付いていたとのこと)また喜代治も中山の人柄に触れ、尊敬の念が次第に恋愛感情へと変わって行った。
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