三陸鉄道の設立とは? わかりやすく解説

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三陸鉄道の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:31 UTC 版)

三陸鉄道」の記事における「三陸鉄道の設立」の解説

しかし、三陸縦貫鉄道完成目前にして、国鉄財政悪化により建設凍結された。この時点での未開業区間は、吉浜駅 - 釜石駅間15.2 kmと、田老駅 - 普代駅間32.2 kmの計2区間で、路盤は既に完成しており、レール敷設もほぼ終了していた。追い討ちを掛けるように、ようやく開通至った盛線宮古線久慈線も、1981年昭和56年9月18日には国鉄再建法による第1次特定地方交通線指定され国鉄路線として廃止されることが決定された。これを受けて岩手県沿線市町村は、同年11月10日第三セクター三陸鉄道株式会社」を設立した社名三陸縦貫鉄道三陸観光鉄道などの案から当時岩手県知事中村直決めたという。 以降代表取締役岩手県幹部職員務めた人物代々務めている。 翌年1982年昭和57年)から未開業区間建設進め久慈線宮古線盛線引き継ぎ同時に未開業区間開通させて北リアス線および南リアス線営業開始し地元悲願であった三陸縦貫鉄道1984年昭和59年4月1日全通したまた、これは特定地方交通線転換して開業した初めての第三セクター鉄道ともなった開業初年度からの約10年間は黒字計上し三陸鉄道成功その後第三セクター鉄道誕生強く後押しした。しかし、輸送人員1992年平成4年)から減少一途をたどり始めた。これは岩手県1980年代後半からモータリゼーション急速に進んだことで鉄道利用者減ってきたことや、少子化に伴い高校生による通学利用者減少したことに加え宮古駅付近にあった岩手県立宮古病院1992年平成4年6月宮古市郊外へと移転したことなどが響いたその後1994年平成6年)からは赤字経営転落し岩手県運営助成基金手を付け始めたこのままでは運営資金底を突くことから、2003年平成15年)には経営改善計画策定し合理化徹底と共に観光客誘致図った

※この「三陸鉄道の設立」の解説は、「三陸鉄道」の解説の一部です。
「三陸鉄道の設立」を含む「三陸鉄道」の記事については、「三陸鉄道」の概要を参照ください。

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