三陸鉄道の設立
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しかし、三陸縦貫鉄道の完成を目前にして、国鉄の財政悪化により建設が凍結された。この時点での未開業区間は、吉浜駅 - 釜石駅間15.2 kmと、田老駅 - 普代駅間32.2 kmの計2区間で、路盤は既に完成しており、レールの敷設もほぼ終了していた。追い討ちを掛けるように、ようやく開通に至った盛線、宮古線、久慈線も、1981年(昭和56年)9月18日には国鉄再建法による第1次特定地方交通線に指定され、国鉄路線として廃止されることが決定された。これを受けて、岩手県と沿線市町村は、同年11月10日に第三セクター「三陸鉄道株式会社」を設立した。社名は三陸縦貫鉄道、三陸観光鉄道などの案から当時の岩手県知事・中村直が決めたという。 以降、代表取締役は岩手県の幹部職員を務めた人物が代々務めている。 翌年の1982年(昭和57年)から未開業区間の建設を進め、久慈線と宮古線、盛線の引き継ぎと同時に未開業区間を開通させて北リアス線および南リアス線の営業を開始し、地元の悲願であった三陸縦貫鉄道は1984年(昭和59年)4月1日に全通した。また、これは特定地方交通線を転換して開業した初めての第三セクター鉄道ともなった。 開業初年度からの約10年間は黒字を計上し、三陸鉄道の成功はその後の第三セクター鉄道の誕生を強く後押しした。しかし、輸送人員は1992年(平成4年)から減少の一途をたどり始めた。これは岩手県で1980年代後半からモータリゼーションが急速に進んだことで鉄道利用者が減ってきたことや、少子化に伴い高校生による通学利用者が減少したことに加え、宮古駅付近にあった岩手県立宮古病院が1992年(平成4年)6月に宮古市郊外へと移転したことなどが響いた。その後、1994年(平成6年)からは赤字経営に転落し、岩手県の運営助成基金に手を付け始めた。このままでは運営資金が底を突くことから、2003年(平成15年)には経営改善計画を策定し、合理化の徹底と共に観光客の誘致を図った。
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