三菱重工の動勢
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JK-PWRの検討が行われていた間、同じPWR系統の技術を持つ三菱重工、WHも上述の動きに注目していた。 『日経産業新聞』によるとKWU、日立、東芝、富士が手を組んだことで日本でPWRの牙城を築いてきた三菱、WHは危機感を抱いたとされる。このため両社は1981年9月に改良型加圧水型軽水炉(APWR)を共同開発することで合意し、1982年1月1日付でプロジェクトチームを発足させていた。4月になると、APWRの主たる開発目標値である電気出力を135万kWから130万kWに修正し、JK-PWRに揃える動きを見せ、更にベクテル・エンジニアリング、関西電力も加えた布陣をとった。また、それまで三菱を含む国内各社は技術供与元のGE、WHに配慮し、海外市場において、プラント一式の商談に参加を控えていた。その慣例を覆し、三菱はWHの了解を得た上で1981年秋にメキシコ電力庁が実施したプラント2基の入札に参加したが、メキシコ電力庁は入札資格をGE、WH、フラマトム、ジーメンスなど日本国外メーカー7社に絞り「門前払い」を受けて敗北していたこともあった。こうしたことから三菱は1983年に入ると開発ピッチを上げることを決定し、1986年早々に通商産業省の審査を受けられる体制(事実上の開発終了予定は1985年内であり、従来計画より半年短縮)とする計画を立てた。 なお、WH社のテオドール・スターン(1984年当時原子力担当上級副社長)は東京電力がK-PWRに接触していた一連の動きについて「東電がWHからPWRを買う可能性が全くないとは言えませんね。実際、我々は定期的にPWRの情報を東電に伝えていますし、東電は最初のPWRを買う時、必ず国際入札を実施するでしょう。その時、われわれは必ず応札するつもりですよ」と述べている。
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