七夕を巡る悪習との相克
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 18:15 UTC 版)
「能代役七夕」の記事における「七夕を巡る悪習との相克」の解説
七夕行事を巡っては古くから町まちの間でトラブルが絶えなかった。それらは各種の争闘・暴力行為、寄附の強要、子供・学生による暴力的あるいは卑猥な言動などで、たとえば1895年(明治28年)には大町(当番町、大町組)と柳町(後町組)との間で衝突が起き、仲裁に入った警察官が重傷を負う(のち死亡)出来事が発生、また1898年(明治31年)には清助町(当番町、清助町組)と富町(大町組)とが衝突し、この時は300人が入り乱れる大乱闘となった。この騒動の発端は清助町組所属の馬喰町が勢揃いの時間に遅れた事で、先着した富町が本来馬喰町の着くべき位置に着いてしまったことによる。このことを巡り富町と争論になり、一旦は富町が相手方を論難して居座ったものの、翌日これを遺恨とした清助町、柳町、新町の若者たちが待ち伏せして富町と乱闘騒ぎに至ったのである。その後この出来事は、一方の当事者である富町との間よりも、むしろ同じ町組内である清助町と馬喰町との間に確執を生み、以後数十年に渡って両者は互いに加勢しない関係となってしまった。清助町と馬喰町とが和解したのは実に1959年(昭和34年)のことであり、当時の能代市長柳谷清三郎の仲介で、ようやく両者の関係が正常化されるに至った。一方、1898年の争闘で共闘したことを契機として、清助町と柳町は互いを「親しみ丁」と呼び合い、互いに加勢丁の灯籠を出して協力し合う関係も生まれた。この親しみ丁関係もまた1959年の清助町と馬喰町の関係正常化まで続くこととなった。また、これらの明治中期の争闘により、1899年(明治32年)に当番年を迎えた後町組では、後町が大丁を務め難いとして辞退を申し入れ、七夕組から離脱する事態となってしまった。これを肩代わりしたのが組内の柳町であり、以後実質的な親町となった。1960年(昭和35年)には正式に柳町が親町となって柳町組を再編成、あわせて後町の七夕組への復帰を承認している。 また、寄附の強要も問題視されており、古くはテコ入れ(太鼓入れ)と言って寄附を出さない家に対して、家の中に押し入って太鼓を打ち鳴らして嫌がらせをしたり、物を投げ入れたりといった行為が度々行われていた。家の前に丸太を打ち込んでムシロを垂らし、七夕を見せないという嫌がらせがあったとも伝わる。このような悪弊や、集まった寄附金を一夜のうちに、それも大半を飲み食いで費消してしまうという濫費の問題から、明治末期から大正時代にかけて、七夕改革論や果ては不要論までもが現れることになる。そして、議会や行政を巻き込んで七夕改革論が検討され、当時の能代港町によって行政主導で町営七夕が試みられることとなった。
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