七夕伝説との関係とは? わかりやすく解説

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七夕伝説との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 15:02 UTC 版)

郭子儀」の記事における「七夕伝説との関係」の解説

『太平広記』昉 等編)巻19に『神仙感遇伝』を引いて次のような説話載せている。 子儀は代宗大暦年間初め、河中に陣を布いていたとき重い病気罹った三軍そのこと大変憂慮し、また万一陣没するようなことがあっては恐れた。それを聞いた子儀は、医者幕僚であった王延昌・趙恵伯・厳郢らを呼んで言った。「これしきの病、屁でもないわい。ワシ決してこんなところでは死なぬぞ」と。そして、こんなことを語り出した武官として朔方索漠の地に従軍していた青年時代のこと、食事終えて銀州向う手前十数里のところで日が暮れてしまい、風で砂埃舞い上がり荷物所在も判らなくなってしまった。這々の体路傍廃屋逃れ一夜を明かすことにした。すっかり夜が更けたとき、突然周囲が赤い光に包まれ、空を見上げれば一台の幌車がゆっくりと地上降りてくるところで、繍帳車内には一人美女乗っていた。郭子儀美女向かってお辞儀をしお祈りをして言った。「本日七月七日ですから、きっと天の織女織姫)が地上降りられのでしょうしからばどうか私が長寿富貴とを得られますように」と。 すると女は微笑んで、「大い富み大い出世するでしょう。それに長生きできますと言った話し終えると、またゆっくりと天へ昇ってゆき、その間ずっと子儀を見つめ、しばらくしてようやく見えなくなったこののち子儀は功遂げ立身し威名赫々たる存在となった。 この話を聞いて全軍みな、且つは祝い且つは喜んだその後、子儀は位人臣極め太尉尚書令・尚父に任じられ九十の齢を全うしてじた。 また郭子儀の「富貴」と「長寿」とについて、新書本伝によると、「(郭子儀邸宅宏壮なること)、「親仁里(長安の坊里の一)の4分の1占め敷地中に長い路地通っており、常日頃三千もの家人出入りしていたが、あまりに広大すぎて子儀がどの建物にいるか、知らない者さえ大勢いた。 かねてより賜った良田・美器・名園・甲館の類は数え切れず代宗彼の「名(諱)」を口にせず、常に「大臣」と呼んだ身をもって天下安危尽すこと二十年その間中書令二十四編校した。 8人の子息と7人の婿は、全員朝廷において貴顕となった内孫外孫合わせて数十人にも達し全員の顔と名前とを憶え切れず挨拶にきたときには、ただ『よしよし』と頷くだけだった。 (彼の人生を省みるとき)富み栄え長寿全うするについても、運不運巡り合せについても、およそ人として生く限りにおいて、何の欠けるところがあったろうか」と評されている。

※この「七夕伝説との関係」の解説は、「郭子儀」の解説の一部です。
「七夕伝説との関係」を含む「郭子儀」の記事については、「郭子儀」の概要を参照ください。

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