七夕伝説との関係
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『太平広記』(李昉 等編)巻19に『神仙感遇伝』を引いて、次のような説話を載せている。 子儀は代宗の大暦年間の初め、河中に陣を布いていたとき重い病気に罹った。三軍はそのことを大変憂慮し、また万一陣没するようなことがあってはと恐れた。それを聞いた子儀は、医者と幕僚であった王延昌・趙恵伯・厳郢らを呼んで言った。「これしきの病、屁でもないわい。ワシは決してこんなところでは死なぬぞ」と。そして、こんなことを語り出した。 武官として朔方の索漠の地に従軍していた青年時代のこと、食事を終えて、銀州へ向う手前十数里のところで日が暮れてしまい、風で砂埃が舞い上がり、荷物の所在も判らなくなってしまった。這々の体で路傍の廃屋に逃れ、一夜を明かすことにした。すっかり夜が更けたとき、突然周囲が赤い光に包まれ、空を見上げれば、一台の幌車がゆっくりと地上に降りてくるところで、繍帳の車内には一人の美女が乗っていた。郭子儀は美女に向かってお辞儀をしお祈りをして言った。「本日は七月七日ですから、きっと天の織女(織姫)が地上に降りられたのでしょう。しからばどうか私が長寿と富貴とを得られますように」と。 すると女は微笑んで、「大いに富み大いに出世するでしょう。それに長生きもできます」と言った。話し終えると、またゆっくりと天へ昇ってゆき、その間ずっと子儀を見つめ、しばらくしてようやく見えなくなった。こののち子儀は功遂げ立身し、威名赫々たる存在となった。 この話を聞いて全軍みな、且つは祝い、且つは喜んだ。その後、子儀は位人臣を極め、太尉・尚書令・尚父に任じられ、九十の齢を全うして薨じた。 また郭子儀の「富貴」と「長寿」とについて、新書・本伝によると、「(郭子儀の邸宅の宏壮なること)、「親仁里(長安の坊里の一)の4分の1を占め、敷地の中に長い路地が通っており、常日頃三千もの家人が出入りしていたが、あまりに広大すぎて子儀がどの建物にいるか、知らない者さえ大勢いた。 かねてより賜った良田・美器・名園・甲館の類は数え切れず。代宗は彼の「名(諱)」を口にせず、常に「大臣」と呼んだ。身をもって天下の安危に尽すこと二十年、その間に中書令考二十四編を校した。 8人の子息と7人の婿は、全員朝廷において貴顕となった。内孫外孫は合わせて数十人にも達し、全員の顔と名前とを憶え切れず、挨拶にきたときには、ただ『よしよし』と頷くだけだった。 (彼の人生を省みるとき)富み栄え長寿を全うするについても、運不運の巡り合せについても、およそ人として生くる限りにおいて、何の欠けるところがあったろうか」と評されている。
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