ロイヤリストに対するキャンペーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/28 16:32 UTC 版)
「スノー・キャンペーン」の記事における「ロイヤリストに対するキャンペーン」の解説
こうした間にリチャードソン大佐は田園部への行軍を始めていた。総勢約1,000名を率い、11月27日までにコンガリー川に到着した。そこで数日間留まり、川を渡り、さらに民兵を集めていた。宿営地を出発したときは総勢約1,500名になっていた。12月2日までにサルーダ川とブロード川の間にあるダッチフォーク地域に到着し、その途中でも増え続ける民兵を吸収していた。ダッチフォークではエバン・マクローレンの家屋に入り、その地域で数人のロイヤリスト士官を捕獲した。ロイヤリストの部隊は指揮官を失ったことで苦しみ、脱走のために勢力を弱めていた。部隊に残っていた民兵達はサルーダ川の水源地にあるチェロキー族の土地に向かって後退した。 リチャードソン大佐はロイヤリストの士官を逮捕することと、盗まれた弾薬の返還を要求する宣言書を発した後で、行軍を再開した。このとき部隊は約2,500名にまで増えていた。さらに成長を続けたその部隊はエノリー川に向かって行軍し、ロイヤリストの指導層を追いかけた。12月12日、リチャードソンは、部隊が3,000名となり、洞穴に隠れていたフレッチオールなど数人のロイヤリスト指導者を捕まえたという報告書を送った。フレッチオールの農園が捜索され、キャンベル知事から来ていた手紙など私信が発見された。 エノリーでは、リチャードソンの民兵隊にウィリアムソンの部隊が合流し、さらにノースカロライナ植民地からはグリフィス・ラザフォードとウィリアム・グラハム両大佐が率いてきた部隊も加わり、総勢は4,000名から5,000名の間にまで膨れあがった。これらの部隊が田園部を探し回り、チェロキー族領土の数マイル内側にあるリーディ川沿いでは、200名のロイヤリストが宿営していることを突きとめた。リチャードソンはウィリアム・トンプソンに1,300名を付けて、この宿営地攻撃に向かわせた。トンプソンの部隊は12月22日にロイヤリスト宿営地を急襲し、兵士を捕まえ、物資、武器、弾薬を捕獲した。トンプソンは部隊兵を支配して虐殺を止めさせることができた。5名ないし6名のロイヤリストが殺され、トンプソン配下の1名が負傷した。 翌12月23日、愛国者部隊が海岸に向かって戻り始めた時に、雪が降り始めた。愛国者部隊はそのような天候に対する備えが無かったので、帰りの行軍は難渋した。リチャードソンの部隊は解体され、民兵の多くは故郷に戻った。この行軍で捕まえた捕虜は136名であり、1776年1月2日に護衛付きでチャールストンに送られた。
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