ラスベガス事件
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1980年(昭和55年)3月6日、ロッキード事件児玉・小佐野ルートの検察側冒頭陳述で「被告の小佐野賢治がロッキード社のクラッターから受け取ったとされる20万ドルは、ラスベガスでK・ハマダが負けた450万ドルの分割払いに充当された」事実が明らかとなった。同日の読売新聞夕刊は、この「ハマダ」とは浜田幸一にほかならないと報道した。これが「1973年(昭和48年)11月にラスベガスのカジノで、当時の為替レートに換算して4億6000万円程度を一晩ですってしまった」事件である。当時浜田は、不動産関係で小佐野の世話になっていた。このことはアメリカ合衆国議会でも証言があり、アメリカ合衆国でも大騒ぎになった。 ロッキード事件渦中の小佐野から大金を用立てされている繋がりや、当時の外国為替管理法に違反し、届け出無しで外国に日本円を持ち出して、アメリカ合衆国ドルへ両替した事実(発覚時は公訴時効が成立)なども報じられ、また刑法で賭博を禁じている立場の与党国会議員が、脱法的に海外で賭博を行ったことへの道義的非難も受ける。 野党も「浜田問題」を与党追及の柱に掲げたため、浜田はひとまず党の国民運動本部長を辞任。それから4月10日に自民党離党と議員辞職願を提出し、4月11日に辞職が認められた。 同年6月に行われた総選挙では自民党の公認が得られず、出馬を見送った。収入の無くなった浜田は、小佐野の不動産会社で真面目に働き、土地の売買等を通じて数年かけて借金を全額小佐野に返済したと語っている[要出典]。 なぜ4億6000万円という金額になったのか、一体何をしたのかを、テレビ番組で平沢勝栄に問われ、「一度失敗すると500万失くす」ゲーム(バカラ)で損失が膨らんだと答えた。また、当時のことを振り返り、「ラスベガス大学に留学していた」と自嘲し、笑いを誘うことがあった。 現地の日本人向け旅行会社では、ツアーガイドが浜田が大損をしたホテル(サンズホテル(英語版))の前で「あれがかのハマコーさんが4億5000万円をすったホテルです」とアナウンスをしていたという[要出典]。
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