ライフライン結合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 07:43 UTC 版)
スチンネス家は19世紀初頭からの実業家である。1810年、マチアス・スチンネス(Mathias Stinnes)が1240ターラーでルール河畔のミュールハイムに一炭坑と一船舶を手に入れて、ライン川の石炭輸送業者となった。1820年には66隻も動かしていたという。1845年、マチアスは死んだ。ドイツが工業化しようとしているとき、スチンネス家は鉱山地方で既に確固たる名声を博していた。マチアスには13人の子供があった。その第4・6・13子は家業を継いだ。スチンネスは世紀末の不況に展開された企業合同運動に参加した。スチンネスは、ルール地方で結合した三大企業のすべてにおいて創立者であった(1858年創立のドルトムント鉱山会社連合、1893年設立のライン・ウェストファリア石炭シンジケート、1903年設置のライン石炭船舶会社)。 マチアスの末っ子の第2子として生まれたフーゴー(Hugo Stinnes)は、1893年に独立してミュールハイムに会社をつくった。1898年、RWEの創設を主導して資本参加した。自治体も参与してサービスもガス・水道・市街電車等にわたる広範な事業体となった。1902年、アウグスト・ティッセン(August Thyssen)と提携して、この会社の多数株を獲得し、互いの炭坑業を結合させた。ここにも自治体が参与し、発言権をもっていた(エッセン、ミュールハイム、ルールオルト、チューリンゲン、ゲルゼンキルヒェン、その他多数)。スチンネスは監査役会長として事実上の支配者であった。別の公私混合企業が破綻したときは、これを1901年ボーフムのドイツ・ルクセンブルク鉱業会社に再編した(Deutsch-Luxemburgische Bergwerks- und Hütten-AG)。このときダルムシュタット銀行のベルンハルト・デルンブルクを参謀にかかえ、ディフェルディンゲン・ダンネンバウム会社(Aktiengesellschaft für Eisen- und Kohlenindustrie Differdingen-Dannenbaum)を巧妙に再編した。1911年以後、スチンネスはノルトゼーヴェルケと結合して海運業にも進出した。エッセン北部やベルリンでは土地投機を行って、他の事業とあわせて税収に貢献した。 1913-4年の冬に、フーゴーはオスマン帝国へ進出した。ベルギーのエルグリー採炭会社(Ereğli coal mine)優先株500万フランを獲得したのである。同社はトルコの大油田に50年の長期採掘権をもっていた。
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