ライフスタイルと信条
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 14:07 UTC 版)
「ラルフ・ワルド・エマーソン」の記事における「ライフスタイルと信条」の解説
エマーソンの宗教観は当時しばしば過激とみなされた。彼は万物は神とつながっていて、そのため万物は神聖であると信じた。批評家達は、エマーソンは中心なる神の像を取り払おうとしていると考えた。ヘンリー・ウェアー・ジュニアは、エマーソンは「世界の父」を取り去り、「孤児院の子供達」だけを残す危険性があると述べた。エマーソンは部分的に、ドイツ哲学と聖書批判学に影響を受けている。超越主義の基礎となる彼の見解では、神は真理を明らかにする必要はなく、真理は直接自然から、直観的に体得することが出来ると示唆している。 エマーソンは1844年まで熱心な奴隷制廃止論者になることはなかったが、日記から、若い頃から奴隷制への関心は始まり、奴隷を解放することを夢見てさえいたことがわかる。1856年6月、アメリカ上院議員チャールズ・サムナーの直後、廃止論者としての断固とした見解を打ち出した。エマーソンは、彼自身が契機とならなかったことを悔いた。「生まれ落ちるや否や、一直線に審問者の鉄槌を取る人達がいる。かくも素晴らしく、我々は道徳律に常に満たされている」と彼は書いた。夏の攻撃の後、エマーソンは奴隷制について公言し始めた。「私は奴隷制を排除しなければならない。さもなくば自由を排除することになる」と、その夏コンコードの集会で語った。エマーソンは奴隷制を、人間の不正行為の例として、とくに聖職者の職務にある時に用いた。1838年初頭、エリア・パリシュ・ラブジョイという名の廃止論者の出版者が、イリノイ州オールトンで殺害されたことに触発され、エマーソンは初めて公に反奴隷制の演説をした。「勇敢なラブジョイが言論の自由のために彼の胸を暴徒の凶弾に差し出したのは別の日だったが、来るべき時が来て死んだのだ」ジョン・クインシー・アダムスは、ラブジョイを殺害した暴徒は、「アメリカ大陸じゅうの地震同様に震撼させた」と語った。しかしながらエマーソンは、改革は軍事行動ではなく道義的合意により達成されるものだと主張した。1844年8月1日、コンコードでの講演で、廃止運動支持をより明確に言明した。彼は「我々はいかなる実際的倫理問題を公然と論じる時も、この運動とその持続によって主に恩恵を受けている」と述べた。 エマーソンは男性に性的関心を抱いたことがあったようだ。ハーバード大学2年時、マーティン・ゲイという若い新入生に惹かれ、彼について性的な詩を書いている。彼はまた生涯を通じ、アンナ・ベーカーやカロリーヌ・スターギスといった様々な女性に熱を上げた。
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