ライネでの対抗宗教改革の始まり
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「ライネ (ミュンスターラント)」の記事における「ライネでの対抗宗教改革の始まり」の解説
ヨハン・フォン・ホーヤもその後継者も、こうした「非カトリック的」状況にうまく対抗する政治力を有してはいなかった。司教領主エルンスト・フォン・バイエルン(ドイツ語版、英語版)の治世になってやっと、対抗宗教改革によりカトリックの教義が司教区内に再び定着した。 エルンスト・フォン・バイエルンは、ライネの教区の状態を看過するわけにはいかなかった。彼は1603年にヘルマン・トム・ドレッケを、ルター派教義の流布、貞潔の侵害、とりわけ聖職の非正規売買の罪により告発した。トム・デッケは公的にはその職を剥奪されたが、住民の強い支援を受けて司教に抵抗し、1605年までその職に留まった。死刑宣告が下され、司教の命令で武装した者が派遣されたため、彼はこの街から逃れることを余儀なくされた。彼の後継者は強固なカトリック聖職者のヨハン・シュメッデス司祭で、市は深刻な状態に陥った。彼が到着したことで、司祭館は「壁だけを残して」空っぽになった。さらに何人かの市民は新しい司祭を殺すと脅迫した。 この頃プロテスタントの教義はライネ市や司教区内の他の地域でも明らかに深く浸透していた。司教エルンスト・フォン・バイエルンはライネに確かな信頼できるカトリックの聖教者を任命したが、住民や議会の意思に反してこの街の圧倒的なプロテスタント主義を駆逐する手立てをほとんど持っていなかった。司教区全域で同じような状況が見られた。 エルンスト・フォン・バイエルンは、70年以上前の再洗礼派に対する古い規則を改定した。彼は、すべての福音主義者は再洗礼主義者であると直ちに断じ、1611年4月1日、ライネ市(および司教区の他の都市)から立ち去るように命じた。この命令は本市ではほぼ完全に無視され、司教はライネの対抗宗教改革では特筆するような成果を上げることなく1612年に亡くなった。 後継司教のフェルディナント・フォン・バイエルン(ドイツ語版、英語版)も、ライネの「大量の邪教徒たち」(1613年4月6日の文書の記述)を制御することができなかった。司教は、福音主義の教義の信奉者に対して国外追放から財産没収までを含む罰を科す一連の規則を施行したのだが、カトリックの司祭は司教に対して「貧しい労働者や職人だけ」が従っていると愚痴をこぼしている。都市の指導者層はその後も抵抗を続けた。 2人の市長のうち1人が礼拝に参加しなかったことで重い刑罰を科された。もう一人の市長は礼拝に参加したが、コミュニオンを拒否した。市の指導者層から絶え間ない嫌がらせを受けた司祭は、市議会は「転向(そしてカトリックの信仰に復帰)するつもりがない」と嘆いた。
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