ライネは服従を拒絶した
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 06:29 UTC 版)
「ライネ (ミュンスターラント)」の記事における「ライネは服従を拒絶した」の解説
ライネも宿営を拒絶した。その理由の1つは、明らかに、市民にとって傭兵隊はどれも同じようなものであり、同盟軍であろうが敵軍であろうが同じように振る舞う者であったことにある。カトリックであるかプロテスタントであるかに関係なく、無規律、殺意、略奪欲にかけては人後に落ちない者ばかりだと同時代の史料に記されている。市とその住民の身体、生活、財産に大きな損害を与えた1598年のスペイン兵による占領を市民はまだ鮮明に記憶していた。 2つめの理由は諸都市への命令が下される直前に、自らの力と自らの費用負担で防衛施設が強化され、防衛出動隊が整備されていたことである。このため壁の中の住民たちはおそらくこれで安心だと感じていた。そして特に、プロテスタントにシンパシーを感じるライネ市民は、カトリック連盟の軍隊を壁の中に入れることを拒絶した。 市議会、ギルト、市長が共同でアンホルト軍の宿営を拒否することを決議することは大きなリスクを伴っていたが、それは領主への服従を拒絶することをも意味していた。振り返って見れば、市民たちは自らの力を過大評価し、アンホルト軍の勢力や戦闘力を過小評価していたといえる。
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