ヨーロッパの再発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 14:12 UTC 版)
「カルナック神殿複合体の歴史」の記事における「ヨーロッパの再発見」の解説
テーベの正確な場所は中世ヨーロッパでは知られていなかったが、ヘロドトスとスレンボンの双方はテーベの正確な位置とそこに達するにはどれぐらいナイル川をさかのぼらねばならないかを示している。2世紀のクラウディオス・プトレマイオスの大きな業績である Geographia に基づいたエジプトの地図が、14世紀後半以降ヨーロッパに出回っており、それらにはすべてテーベ(ディオスポリス、Diospolis)の位置が示されていた。それにもかかわらず、15世紀から16世紀の数人のヨーロッパの著者は下エジプトのみを訪れただけで彼らの旅行記を発表し、Joos van Ghistele またはアンドレ・テヴェ(英語版)のように、テーベをメンフィスもしくはその近くに置いた。 カルナック神殿複合体は、1589年に無名のヴェネツィア人によって初めて記載されたが、その報告には複合体の名は触れられていない。フィレンツェ国立中央図書館に保管されているこの報告は、古代ギリシャ・ローマの著者以来、カルナック、ルクソール神殿、メムノンの巨像、エスナ、エドフ、コム・オンボ、フィラエほか、上エジプトやヌビアの記念建造物全般にわたって、初めて知られたヨーロッパの記述である点において、類のないものである。 村名としてのカルナック ("Carnac")、およびその複合体の名は、2人のカプチン会 宣教者、プロタイス (Protais) とチャールズ・フランソワ・オルレアン (Charles François d'Orléans) がその地域を旅した、1668年に初めて認められる。彼らの見聞に関するプロタイスの記述は、Melchisédech Thévenot (Relations de divers voyages curieux, 1670s–1696 editions) および Johann Michael Vansleb (The Present State of Egypt, 1678) より出版された。 カルナックの最初の描画は、1704年のポール・ルーカス (Paul Lucas) の旅行記 (Voyage du Sieur paul Lucas au Levant) に見られるが、かなり不正確であり現代の目で見たとき完全に混乱させられることがある。ポール・ルーカスは1699-1703年の間エジプトを旅した。描画は、木に囲まれた複合体を基礎として、アメン=ラーの神域やモンチュの神域の構成物、 プトレマイオス3世エウエルゲテス(紀元前246-221年) / プトレマイオス4世フィロパトル(紀元前221-205年)の巨大なプトレマイオスの門、ならびに壮大な幅113m、高さ43m、厚さ15mの、アメン大神殿の第1塔門を示している。 カルナックは、相次いで訪問され記述されるようになり、クロード・シカール (Claude Sicard) と彼の旅行同行者ピエール・ローラン・ピンチャ (Pierre Laurent Pincia) (1718年、1720-1721年)、グレンジャー (Granger) (1731年)、フレデリック・ルイス・ノーデン Frederick Louis Norden) (1737-1738年)、リチャード・ポコック (Richard Pococke) (1738年)、ジェームズ・ブルース (James Bruce) (1769年)、Charles-Nicolas-Sigisbert Sonnini de Manoncourt (1777年)、ウィリアム・ジョージ・ブラウン (William George Browne) (1792-1793年)、そしてついにナポレオン遠征において、ヴィヴァン・ドノン (Vivant Denon) を含む複数の科学者が、1798-1799年にかけて訪れた。クロード・エティエンヌ・サヴァリ (Claude-Étienne Savary) は1785年の著書のなかで、かなり詳細に複合体について説明している。特にそれは他の旅行者の情報より構成される上エジプトへの旅行を装った作り話の中において光明を照らしている。サヴァリは1777-1778年には下エジプトを訪れて、それについても著作を出版した。
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