ヨットマンとしての活動とは? わかりやすく解説

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ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:23 UTC 版)

石原裕次郎」の記事における「ヨットマンヨット乗りセイラーとしての活動」の解説

裕次郎日本セーリング界でもその歴史名を残している人物である。 もともと父親郵船会社社員、つまり船と海の世界生きていた人物で、父親転勤の折、父親判断で海の近く逗子逗子近く住居構え、その地で裕次郎ヨット興味持ち裕次郎熱烈な希望応える形で父親木製のディンギーヨットを買い与えたのが、裕次郎にとってのヨットとの本格的な付き合い始まりとなった。兄・慎太郎も一発でこのディンギーヨットの操作方法会得し兄弟ヨットを楽しむようになり、主に逗子湾や葉山などをフィールド経験深めていった。当時日本ではそもそもセーリング・ボートを所有している人が大人含めてほとんどおらず、ましてや学生の身分ですでに自分のセーリング・ボートを所有している人は(ほぼ)いなかったので、二人日本セーリング界では稀有存在となってゆくことになったその後裕次郎俳優として映画界活躍するうになると、石原兄弟セーリングへの情熱、その経験技術は、映画作品シーン構築撮影でも活用されるようになった結果として日本の映画シーンにセーリング・ボートが何度も登場するようになり、それを見た映画観客がセーリング興味持ち結果として日本セーリング人口増やすのにも貢献した石原兄弟有名人となり裕福になるにつれ、艇をディンギーからセーリング・クルーザーへと、そして徐々に高級な艇へとグレードアップていった。艇には、兄・慎太郎の趣味で「コンテッサ」という名(フランス語で「伯爵夫人」の意)をつけ、その名は艇を買い替えても「コンテッサII」「コンテッサIII」...と継承されてゆくことになる。この名は他には無い独特のものなので、日本セーリング界では、ヨット・レースなどの出場艇のリストに「コンテッサとあれば誰でも即「石原兄弟の艇だ!」と分かる存在となっていった。コンテッサには、主に石原兄弟地元逗子葉山在住古くからの仲間などが、クルーとして乗り込んだコンテッサ号は、いくつも国内ヨット・レース参加し日本セーリング界を盛り上げる一翼担いつづけたが、中でも特筆すべきことは、1963年裕次郎がトランスパシフィック・ヨット・レースに兄弟の愛艇「コンテッサ」で参加したことである。Transpacific Yacht Race(トランスパシフィック・ヨット・レース、略称「Transpacトランスパック)」)とは、米国西海岸から出発し太平洋を渡るようにして進みハワイゴールするセーリング・クルーザーのためのレース当時日本から国際的なヨットレース参加できる人はほぼ皆無であり、裕次郎日本セーリング界の歴史名を残す人物にもなった。 なお裕次郎歴代の愛艇のうちひとつは、1991年開館石原裕次郎記念館入り口付近に展示された。

※この「ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動」の解説は、「石原裕次郎」の解説の一部です。
「ヨットマン(ヨット乗り、セイラー)としての活動」を含む「石原裕次郎」の記事については、「石原裕次郎」の概要を参照ください。

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