モードック戦争に関する補遺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 22:52 UTC 版)
「モードック戦争」の記事における「モードック戦争に関する補遺」の解説
1873年1月17日の砦での最初の戦いで、戦場には約400名の米軍兵士がいた。この部隊には歩兵隊、騎兵隊および榴弾砲部隊が含まれていた。オレゴン州とカリフォルニア州の志願兵中隊(複数)とクラマス族インディアンの斥候数人もいた。フランク・ホイートン大佐が全軍の指揮を執った。 4月17日の砦での2回目の戦いでは、約530名の部隊が参戦した。これには米軍歩兵隊、騎兵隊および砲兵隊とウォームスプリング族インディアンの斥候がいた。志願兵中隊(複数)は戦場から撤退した。市民少数が物資輸送者として使われた。アルビン・C・ジレム大佐が全軍を指揮した。 モードック戦争のいかなる時にも、戦闘に加わったモードック族戦士は53名以上ではなかった。 モードック戦争の損失は下表の通りである。 身分戦死負傷米軍士官 7 4 兵士 48 42 市民 16 1 インディアン斥候 2 0 総計 83 46 クラマス砦で絞首刑となったインディアン4名を含み、キャプテン・ジャックのバンドでは17名の戦士が殺された。 「モードック戦争」で、アメリカ合衆国には400万ドル以上の費用が掛かったと見積もられた。関わった戦力が小さかったにも拘らず、人命と費用の損失は大きかった。これとは対照的に、別の保留地としてモードック族に要請された土地の購入費用は2万ドルと見積もられた。 モードック戦争の戦場跡はラバベッズ国立記念公園の中でも人目に付く様相である。これにはキャプテン・ジャックの砦が含まれ、その近くにモードック族がその陣地の防御に使った多くの亀裂、尾根、およびコブ、さらに多くの前哨基地、戦争があった数ヶ月間にモードック族が住んだ煤跡の残る洞穴、モードック族が牛や馬を飼った囲い、および戦勝祈願の踊りの場や協議の場を見ることができる。砦の周りには、砦に向かって前進する米軍が作った多くの低い石の遮蔽物やモードック族が脱出した後に作られた数多い遮蔽物、モードック族が元の強固な陣地に戻ってくるような事態に備えて砦を守る為に造られた遮蔽物も見ることができる。ハーディンビュートに近いトーマス・ライト戦場跡はこの記念公園のなかでも興味ある場所である。またジルマー・キャンプのあった場所、元軍人墓地、ホスピタルロックおよびキャンビーの十字架も興味ある場所である。アメリカ合衆国国立公園局は戦場を回る2つのコースについてガイドなしの散策地図を用意している。ジャンプオフ・ジョーとその部隊が殺された場所のクリークは彼の栄誉を称えてジョーの名前を付けられた。その滅多切りにされた遺体が見つかった場所には小さな記念銘盤が置かれていた。この銘盤は1924年8月7日に盗まれ、再度置かれることはなかった。
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