モードック族とアメリカ合衆国との条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 22:52 UTC 版)
「モードック戦争」の記事における「モードック族とアメリカ合衆国との条約」の解説
「インディアン戦争」と呼ばれる、ヨーロッパ白人入植者と先住民族インディアンの紛争全ては、異民族間文化の衝突と、白人による同化政策によって、インディアンたちの土地や生活様式が奪われたことが根本の原因だった。 具体的な動きは1852年に遡り、モードック族インディアンがブラッディポイントで幌馬車隊の白人開拓者65人を殺害したことがきっかけだった。その報復として、和平交渉に来ていたモードック族インディアン51人が「ジャンプオフ・ジョー」が指揮するカリフォルニア民兵隊に殺された。敵対関係は1864年まで続き、この時アメリカ合衆国と、クラマス族、モードック族、およびスネーク族(ヤフースキン隊)が、クラマス保留地を確立する条約に調印した。この条約の条件に従い、ションチン老酋長らモードック族インディアンは、ロスト川、テュール湖およびローワークラマス湖地域の土地を諦め、アッパークラマス渓谷にある保留地に移動した。 この移住はモードック族のラギ(酋長)のキエントプース(英名キャプテン・ジャック)、オレゴン州のインディアン問題監督官アルフレッド・B・ミーチャム、保留地管理人O・C・クナップ、ヤイナックスの管理人補アイバン・D・アップルゲイト、およびW・C・マッケイの間の協議会に続いて調印(インディアンは×印を署名とした)された。この会合の場に米軍兵士達が突然現れたとき、モードック族の戦士達は部族内の女性や子供を置いて逃げ出した。ミーチャムは女性や子供を馬車に乗せて、保留地に向けて出発した。キャプテン・ジャックの姉妹である「クィーン・メアリー」はキャプテン・ジャックに保留地に移住するよう説得するのを許された。メアリーは説得に成功した。キャプテン・ジャックとその仲間は一旦保留地に入ってから、モードックポイントに永住のための家を建てる準備を始めた。
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