モルモン教とモルモン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 00:52 UTC 版)
「ミズーリ州の歴史」の記事における「モルモン教とモルモン戦争」の解説
末日聖徒イエス・キリスト教会(またはモルモン教)の指導者ジョセフ・スミス・ジュニアが、ミズーリ州西部、特にインデペンデンス周辺地域やその他のミズーリ州西部地域は、天国となり採取の地となるという神のお告げを受けたと主張した。1830年代初期までにモルモン教徒がこの地域、当初はインデペンデンス周辺地域とその周囲に入ってきた。モルモン教徒の社会がデイビース郡に創られアダム・オンディ・アーマンと名付けられた。スミスは、その場所がエデンの園から追い出されたアダムの住んだ場所だと言った。 ミズーリ州西部の初期開拓者の多くは、南部州から来ており奴隷制ももたらしていたので、新参者には不満だった。モルモン教徒は集団で投票を行い、一定地域に集中して住み、自分たちの間だけで取引を行うのが普通であり、また奴隷を持とうとしなかった。これら全てのことが、「以前からの開拓者」に嫉妬と疑いを生じさせた。モルモン教徒がその地域は神から彼らに与えられたという主張を口に出すことは、事態を悪くするだけだった。1830年代半ばまでに、モルモン教徒はインデペンデンス地域から実質的に追い出されたが、北の郡部と少数は東に移り住んだ。以前からの開拓者との紛争が新たになり、1838年までに敵対意識が再度頂点になった。ミズーリ州知事リルバーン・ボッグスは撲滅命令の前兆となるものを発行し、それがミズーリ州人にとってどんな手段を尽くしてでもモルモン教徒を追い出そうという動機となった。小競り合いや小さな戦闘が起こり、多くの人々、大半はモルモン教徒が殺された。ジョセフ・スミスは他の教派指導者等と共に監獄に入れられ、数カ所の刑務所に5ヶ月以上も留められ、裁判や聴聞の望みも無かった。スミスは逃亡を許され、彼とその教会はイリノイ州に移動して1839年にノーブーの町を作った。ミズーリ州には末日聖徒イエス・キリスト教会やキリスト教会社会によって今でも意義有ると考えられる重要な場所が多く残っている。1976年ミズーリ州は公式に撲滅命令を破棄した。
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