モブツ独裁体制の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 07:04 UTC 版)
独裁者としての地位を確立したモブツは1965年に手始めに州の数を削減してその独立した立法権の多くを廃止して地方の自立性を弱め、中央集権体制を強化した。着実に重要度の高い役職を彼の支持者で固めた。1967年にモブツは自己の正当性を示すために、彼が制定した新憲法下で1990年まで国家の唯一の合法政党として存在することになる、革命人民運動(英語版)(MPR)を結成した。1971年には国名をザイールと改称して植民地時代の名残りを完全に取り除くための「ザイール化政策(英語版)」を推進した。UMHKの後身企業であるジェカミン(英語版)も含めて全国の外資系経済資産を国有化した。1980年代以降のモブツ政権は失政と腐敗の代名詞となっていた。 コンゴ動乱終結後の数年間で、モブツは彼の独裁を脅かす可能性のある多くの反対勢力の主要人物を排除することに成功した。反逆罪に問われたかつてのカタンガ分離独立運動指導者モイーズ・チョンベは1965年に第二の亡命生活を開始した。1966年から1967年にかけて二度にわたり、モブツ政権下での待遇に不満を感じる約800人のカタンガ憲兵隊やかつてチョンベに従っていた元外人傭兵部隊も関与したキサンガニの反乱(英語版)が勃発した。反乱は最終的に鎮圧された。1967年にチョンベは欠席裁判で死刑を宣告され、同年に搭乗していた飛行機がハイジャックされ、アルジェリアで監禁された。1969年の彼の死は自然な原因によるものとされているが、その死にモブツ政権が関与したという憶測が国民の間にも流れた。かつてのシンバ反政府勢力幹部ピエール・ムレレはモブツから恩赦を約束され、亡命生活を終えてコンゴに帰国したが、この約束は反故にされ、拷問された後に殺害された。
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